前提を共有しない人と定期的に話すことの効用について

前提を共有しない人と定期的に話すことの効用について。
僕らは普段コミュニケーションをとる。
ところで、最近誰と取ったか?
思い返してみてほしい。友達やパートナー、職場の仲間、家族など、初めての人と喋ることは何割ぐらいだっただろうか?

多分意外と、日常人は初めましての人と喋ることって相対的には少ないのではないだろうか。
ところがどっこい、僕は1週間で初めましての人と少なくとも20人、多い時で100人〜200ぐらいとお話をする。

福島の沿岸部という人の流れが激しいエリアという地理的な背景、僕の職場がコワーキング・宿泊が複合した小高パイオニアヴィレッジという施設でお客さんはもちろん、視察や見学も頻繁にあるという場所的な背景、そして僕がこミュニティマネジャーというその中でも特にフロントに立つことの多い役柄の背景でそうなっている。

最近は学生さんの卒論関係でのインタビューなどが多いが、キャリア的な話で今日は1時間、初めましての学生さんと喋った。

ところでこういうインタビューにお付き合いしてくださいというものは、どれぐらいの頻度であるべきなのだろうか、ずっと迷っている。
学生さんのインタビューは、9割9分、無料である。
サービスの利用に繋がらないことがほとんどだ。 オンラインで澄ませることも特にコロナ禍以降は体感半分はある。
未来ある学徒のために協力してやれよ!という声もごもっともだ。学生さんはお金ないからさ、というものわかる。
そして僕自身現役時代はあまり学に積極的ではなかったので、その罪滅ぼしという側面もあるので、積極的に協力を心がけている。

しかし端的に言って、リソース食いまくられるのだ。単純な事業を動かす側面で言えば、コスパは一番悪い。

が、最近は単純な売り上げ的なものとは別の側面での効用があるんではないか?という可能性を感じ始めた。
それがタイトルにもある通り、「前提を共有しない人」とお話をするという経験だ。

僕らは怠惰な生き物で、どんどん簡略化をしたがる。文脈をできるだけ共有できる人と付き合っていた方が、コストが低いのだ。
「アレよろしく」とか「いつもの」とか、そういうのか。

当たり前なものだが、初めましての人には、そんな簡略化は通じない。
一から共有をしなければならない。

だが、それがいいのかもと思い始めた。
インタビューを受け、説明をしていくことは自分の内部にあり非言語・無意識のものがどんどんと言語化、体系化されゆく。

「この地域の特徴ってなんですか?」という問いに対しても政治的、経済的、文化的、地理的などエトセトラの切り口があり、当意即妙に返すことを求められる。
それをたくさん繰り返す。多分年に100回以上はやっているだろう。

昔は当然地域に入っても浅いし、なぜそれがそうなっているのかの因果を説明することはできなかった。
ここがどんな特異性を持っていて、それがなぜ起きているのかの因果に目こらし、耳を澄ませ、嗅ぎつけ、手触り、味わいを通じて確たるものとして自分の中に持つ。

土の民としてのふんわりとした感覚だったり、風の民としての外からの俯瞰した観察であったり、スコープとアンテナを東西南北、現在過去未来、自在に移していくことでなしていく不断の作業を繰り返す。



具体、抽象、都市の理論、地方の理論、感性、理性、両犠牲を常に自らの中に内包させ続け渦巻くあれこれに多面の視野と感性をもって相対しようというスタンスを努力ではない、「ヘキ」として持っているもんである。

自分の職業的強みはかようにして形成されていく。
そしてそれが時に誰かを助けることもある。

定期的に異人となり、異人と出会うことをこれからも心がけていこう。


なんかこれともちょっぴり絡んでいそう


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