社会性とは無縁の
人は生きる上で、他者の意向や社会の常識と折り合いをつけないわけにはいかない。これは当然の事実だ。
これは、人は社会のなかで生きる以上、かならず「表に出してはならない部分」を抱えることを意味する。その量や質には個人差はあるかもしれない。けれども、自分の本心を丸出しにして生きていける人は、そう多くはあるまい。
だからこそ、ある人はスポーツやライブなどに赴くことで、社会と自分の齟齬から生まれる余分なものを昇華しようとする。あるいは、酒を飲んだりうまいものを食ったりして鬱憤を晴らす。昭和のおっさんであれば、行きつけのスナックのママあたりに愚痴をこぼす。そうやって、社会や他人との折り合いをつけながら生きている。そういうものだと思っている。
言い換えれば、人はおしなべて「むやみに人には見せられない部分」を抱えながら生きているのだ、ということになるのかもしれない。
だから、その「むやみに人には見せられない部分」というものは、社会の常識や他者の意向にそぐわない類の代物である、ということになる。だからこそ「むやみに見せられない」ものになるのだ。人には、多かれ少なかれ、他者に見せると不快に思われるような部分があり、それを一生懸命隠しながら生きているのだと思う。
それに異を唱える人がいたら、よほどの聖人か、あるいはよほど自分わがままを他者に押し付けながら生きてきた人ではないか。僕はそう思っている。
そして、ある種の表現行為とは、こういう「むやみに人には見せらない部分」を、なんとか世間様に受け入れてもらえる形に昇華する作業なのだと思っている。それが笑いや共感を生むのは、受け取る側にも同じような「むやみに人には見せらない部分」があるからなのではないか、とも。
ある種の表現が「むやみに人には見せられない部分」を許容可能な形で見せることであるならば、「むやみに人には見せられない部分」を見せてもある程度は許容してくれる人もいるということになるだろう。
人が「信頼」と呼ぶものは、そういうことであるかもしれない。
僕の場合、恋愛関係とはそういう関係だと理解している節がある。他の人に見せるわけにはいかない、自分のある意味負の側面とでもいうべき部分を、ある程度まで許容しあえる関係。これが恋愛の条件だと思っている。
だからこそ疑問に思うのだ。
なぜ、恋愛関係にある人の嫌な部分を見て「醒める」ということが起きるのか。僕には理解できない。むやみやたらに人に見せられない負の側面をある程度持っているのは人として当然のことで、それを垣間見せても許容できる関係として互いを位置付けていたのではないのか。多少の負の側面が見えたとしても、それを負担と感じないで相手との信頼関係を持ち続ける動機となるものが、「好き」という感情なのではないのか。
もちろん、許容できるにも限度があるというのはわかる。相手に負担を負わせ続けることがいいことだとも思わない。関係性を維持するのは現実的な問題だから、そういう側面から離れることを余儀なくされることがあるのもわかる。けれど、自分が相手に押し付けているかもしれない負の側面を考慮するなら、多少の相手の負の側面が見えたところで「醒める」とか、随分身勝手な発想じゃないのか、と思ってしまう。
究極的には程度の問題だということに帰着するのだけれど。
もっとも、すでに述べたとおり、関係性を構築するのは現実的な問題でもあるから、当の相手に対する配慮は絶対に必要だし、大切な相手だからこそ見せてはいけない側面が生まれることもある(そのことが、「それ以外の人間関係」を必要とする理由になるのではないかとも思う)。
そして、僕だってなんでもかんでも許容できるわけではない。時代はちょっと懐かしめだが、西野カナの「トリセツ」に出てくる女性とか、可愛いどころか面倒臭くて絶対に好きにならないタイプだ。
けれども、互いにきちんと向き合う姿勢があるのなら、多少の欠点などなんの問題にもならない。考えかたの相違だって大きな障害にならない。大事なのは、「むやみに人には見せられない部分」があるということを互いに理解できて、それをある程度まで晒しても許容できるかどうかだと思う。
愛なんて、そうやって他の人から見えないところでひっそりと育まれるものだと思う。
何を今さらこんなことを書いているのか。多分、何か昔のことを思い出したからだろう。
昔のことは、大概が自分を苦しめる要因でしかない。その苦しみを少しでも解毒するために、なんとか言葉の器に乗せようとしているのだろう。表現するとは、おそらくそういうことだ。
それでも、僕を苦しめた人を許すことはできないだろうけど。
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