伝えるとか教えるとか、あるいは人を動かすとか、そういうことについての備忘録


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 自分自身の考えを伝えて、何らかのスキルだの思考方法だのを他者に教えるときに、あるいは他者に何らかの行動を促すときに、自分は一体どうしたらいいかというのは、そういう場に立たされた人なら誰でも悩むことだろうとは思う。僕も同じだ。割と日常的に、頻繁にそういう場面に遭遇するので、伝えるだの教えるだのという作業はいかにあるべきかは、否応なく考えることになる。
 日々頻繁に考えることなので、自分なりの哲学(本来ならこういう文脈に「哲学」という語を使いたくはないのだけれど)というか方法論というか、そういうものも出来上がってくることになる。勿論、それは単なる机上の空論ではない。過去の事例や理論をある程度おさえた上で、最終的にはそれなりに自分の実践の中から見出したものだ。だから、自分の方法論にはそれなりの自信もないわけではない。
 といっても、自分の方法論や実践例が完璧である、そう自信を持って言えるかといえば、実のところ必ずしもそうではない。何事にも例外はあるし、実践においては失敗もある。どんなに自分の方法論にそれなりの自信を持っていたとしても、日々のやり取りの中で「それでよかったのか」と反省や後悔に似た思いを抱くことはある。かなりある。かなり。
 特にここ1ヶ月くらいは、そういう思いを抱くことが増えている。


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 これから述べることは、自分自身にとっての備忘録というか、あくまで考えの整理の手段として行うものである。誰かのためになるような有益な方法だの心構えだのを流布する目的は全くないし、そんな有益なことを語れるほどの技術や経験はない。

 さて、僕が他者に対して「伝える」「教える」作業をする際の根本にあるものは、多分2点ある。一つは、「他人は自分とは異なるバッググラウンドを持っている」ということ。これは意識的なものだ。これが前提としてあるので、その違いに由来する齟齬だったり、動機や目的の違いを、つねに念頭に置きながら自分の方法を組み立てようとしている。そしてもう一つは、「相手は僕が思っているより理解する能力がある」ということなのではないだろうかという気がしている。こちらは常に意識しているというより、無意識的にそう思っているという意味だ。
 そして、僕が誰かに「行動を促す」必要に迫られることもある。そのための方法は、結局のところ相手が自ら行動に向かうための動機付けを与えるしかない。それも、極力「動きたい」と思ってくれるような積極的なそれを与えるのが望ましい。面白そうだと思ってもらえるならそれが一番いい自分なら、あるいは自分でもできそうという思いでもいいだろう。義務感や危機感を与えるのは、そうしなければならない場合もあるが、行動に移す際に壁を作るケースがあるので必須だとは思わない。もしそれが積極的な動機付けになるなら、人間的な信頼関係を築くことも有益だろう。

 ただ、僕の説明は長くなりがちだ。これは、上の2つの前提のせいなのかもしれないとも思う。自分では意識していなかったのだが、「長くても正確であれば理解可能」という、相手に対する一種の信頼(場合によっては過信あるいは甘え)も背景としてあるのではないかという気がしている。けれども、他人の話を理解するには、あるいは理解したことを行動に移すには、聞き手が自分自身で反復するという作業が不可欠なことも多い。僕自身が「反復作業」が嫌いなこともあり、それを強いるのは避けるようにしてきた。でも、人によってはその方がいいこともあるかもしれない。
 そのあたりの配慮不足は、明確に僕の弱点だろうと思う。


 なぜこんなことを考えるのか。それは、これまでとは異なる環境に触れたから、というのが大きい。
 環境が変われば、そこで培われてきた方法論も、求められる役割も微妙に異なる。あるいは、方法論に共通点はあっても、その実践のあり方やリソースが微妙に異なることもある。これまでの自分の方法との微妙な違いに戸惑ったり、違わないけれども改めて自分のそれに向き合うことになったり、そういった作業を通して自分の方法論に反省を迫られたり、そういう経験をここしばらくしているのだろうと思う。あるいは、純粋な方法論とはいえない、ある意味環境的な要因の問題もあるのかもしれない。
 その精神的な負担は、僕にとって意外にも重いものだった、ということのだろうか。


3

 とはいえ、確実なことも一つある。それは、結局のところ自分が真摯に考えることを実行する以外にはないということだ。
 そもそも、僕はそこまで器用でも優秀でもない。だから、環境や状況によって臨機応変に対応を変えることは難しい。自分のやるべきことや、自分の考えることは変わらないという以上に、変えること自体が能力の限界により難しいのだ。
 だから、変化した環境に対応しようとか、新しい環境での期待に応えようとか、そういう思いを持たない方がいい。自分がすべきことは、根本の部分は変わらない。
 
 とはいえ、見方を変えれば、環境の変化によるタスクやリソースの微妙な違いは、これまでの環境において自分が強く意識していなかったことを浮き彫りにしているとも言える。要するに、自分の弱点が顕在化されているわけだ。だからこそ戸惑うのかもしれないけれども。
 そう考えると、環境の違いによるさまざまな差異への意識は、自分のスキルを高める上でのいい機会なのかもしれないとも思う。事実、面倒だと思いながらやっている作業が、実は過去に実践していたが数年忘れていたことだったと知る機会もあった。
 環境の変化は、そこに向けて自分を大きく変える機会というより、自分に欠けているもの、忘れているものを認識させる機会なのだと考えた方が、気が楽になる。その上で、環境が変わったところでやるべきことは原則としては変わらないと、自分を保ち続ければいい。

 どんな理論であっても、どんな実践の仕方であっても、完璧なものなどあるわけがなく、だから日々試行錯誤と修正が行われるのが当然。僕もそうだったし、今でもそうだ。そのときはそれが最善と思ってやるのだけれど、終わってみれば反省点も多く、だから必ずキリのいいタイミングでヴァージョンアップを試みる。
 今回、自分の意志で行われたヴァージョンアップではなく、外的な要因でいわば強制されたヴァージョンアップを試みているのかもしれない。でも、かつて自分がやっていたヴァージョンアップ作業の延長だと思えば、そこまで違うことをやっているわけではないと思えるだろう。というより、事実としてそうなのだ。


4
 僕は、そこまで優れた人間ではない。
 もちろん、他人より「優れた」部分があるからこそ、その部分に対価を払ってもらっているのだとは思う。だから、その部分に関しては、対価が払われる程度に「優れた」ものでなくてはいけない。
 とはいえ、それとて「もっと優れた」人が数多くいるのも事実だろうと思う。まして、それ以外の部分については、全くもって優れたとはいえない人間なのだ。
 だから、自分を過信してはいけないが、同時に自分を信じなくてはならない。

 さほど独創的な結論ではないが、平凡な人間の至る結論なのだから、平凡になるのが当然なのだ。


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