ある日の終演後の会話についての備忘録
トランペットらしい音や演奏。
といえば、ブルックナーの交響曲のような重厚なオルガニックな響き、バロック音楽に見られる天上から降り注ぐような明るく崇高な響き、あるいは空間を切り裂くようなハイノート、楽器のベルがビンビンに鳴るような華やかでヴァイタルな音やプレイ。思い出されるのはこんなものだろうか。
でも、自分は、そこそこ長い期間トランペットを吹いていて、そのどれも目標としていなかったような気がする。もっとも、そういうことをやろうとしても、技術が足りなすぎて出来ないと思うけど。
冷静に考えると、これまで僕が好きだった音楽は、大抵トランペットのような金管楽器を必要としない。僕が音楽というフィールドでやりたいことは、上に挙げた「トランペットらしい音や演奏」を必ずしも必要としないのだ。
それを、僕自身が「トランペット」という楽器を通してやるとしたら、という過程で物事を考えてきた。その結果として、Chet BakerだったりTill Bronnerだったり、あるいはTOKUのような雰囲気だったり、そういう方向性を求めるようになった。
もちろん、どういうジャンルで演奏するかによって、求められることは当然ある。それは身に付けなければいけないことではある。けれどもその一方で、トランペットらしさを求めて音楽をしてきたわけでは、決してない。それがいいことであるかはともかく。
だから、楽器はあくまで手段だというのは、多分私にとってもそうで。
「フリューゲルが本業、トランペットは副業」と嘯いているのも、目標としているものがどこなのかを踏まえた結果、あるいは出来そうもないことを削っていった結果だ。
その結果として、「フリューゲルらしい音」や「フリューゲルっぽい演奏」が少しでも実現されていたなら、それは十分な成果だ。それでよしとしようではないか。他のことができなくても、他の人のようには吹けなくても。
だって、「トランペットは副業、フリューゲルが本業」は、自分なりのアイデンティティを模索した結果なのだから。
だから、そう言ってもらえたのであれば、もう十二分に成功なのだ。
それでいいのだ。
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