捨てられないということ

1

 3月、思うところがあって、いままで長いこと使っていたローデスクを廃棄し、デスク周りの環境を一新することに決めた。
 理由はいくつかある。何かするときの理由はほとんどの場合一つではなく、何か複数の要素が重なっているものだ。もっとも、その詳細についてここで説明することはやめておく。

 ともあれ、その手始めとして、机を置く部屋を整理することにした。それもかなり大掛かりな規模で。こういう機会でもないと、たまってしまったものの整理はなかなかしない。それに、せっかく机を新しくするのだから、部屋全体も少し見栄えのいい感じにしたい。
 そういうわけで、まず押し入れに押し込めていた様々な物体を引っ張り出し、捨てるもの、売れそうなもの、取っておくものに分類。その上で、新たな収納家具を購入し、再度分類して収納したあと、押し入れにまた突っ込む。
 さらに、机一式のスペースを確保するために、部屋にあった本棚やカラーボックスなどの配置を変更。
 こうして、ものが溢れて雑然としていた部屋(和室6畳)に、ちょっとだけ開けた空間が生まれた。捨てるものや売るものがあった分だけ、空いた空間が現れたのだろう。


2

 この過程で思ったことがある。自分はやはり、「捨てられない人」なのだなあ、と。
 
 昔から、捨てることが得意ではなかった。
 子どもの頃、お菓子だの食品だののパッケージにかわいいイラストが増えた(ように思えた)ことがあって、そういうのを楽しく眺めていたのだが、ある日突然。

「ああ、世の中には、こういうイラストを一生懸命考えて、一生懸命作っている人がいるのだ」

という現実に気づき、呆然としたことがある。
 その瞬間、商品を買った後には廃棄すべきパッケージを、捨てることができなくなっていた。商品を手にとってもらうために、魅力的なキャラクターやイラストを作る人が一生懸命考えて作った、そういうパッケージを捨てるなんて、それは作り手に失礼ではないのか。子ども心に、そのように思えたのだ。
 もちろん、取っておいたところで、そのようなパッケージを何か有効に使う手立てがあるわけでもない。いずれは捨ててしまうことにはなる。その時に思った内容も、子どもなりに忙しい日常の中で薄れてはいく。けれども、「人が作ったものを捨てる」という行為が罪深いものであるかのような意識は、その後もどこかに残り続けていたように思う。

 そういうわけで、使う見込みのない色々なものが、捨てられずに残ってしまうことになる。部屋を整理する過程で、そういったものが大量に発掘された。
 列席した結婚式の式次第や新郎新婦の紹介、車や楽器のカタログ、展覧会やコンサートのフライヤー、かつての勉強のノートやプリント、などなど。いずれも、すぐに捨てることが忍びなく、取っておいてしまっていたものだ。けれども、いずれも今の自分には必ずしも必要とはいえないものだ。

 今であれば、思い切って捨てることもできる。そうなるまでには、なかなか時間がかかってしまったけれども。


3

 発掘された過去のものたちのうち、とりわけ興味深かったのは、過去に自分が作った楽曲の譜面だった。

 今でこそほとんどしなくなってしまったが、学生時代は自分で演奏するよりも、作曲や編曲のほうが好きだった。もちろん正式に勉強をしたわけではなく、素人の趣味の範囲でしかないのだけれど。それでも、オーケストラの譜面とかまで書いて、友人たちに演奏してもらったこともある。その時の譜面とか、あるいは友人に演奏してもらおうと思っていたが結局できなかったバイオリン・ソナタの真似事の譜面とかが、ごそごそと現れてきたわけだ。懐かしいことこの上ない。
 そうか、これらをDTMで音として復活させてみるってのもいいな。そう思った。自分では演奏できないし。楽器違うから。

 こうして新しい目標のようなものもついでに発掘されるのであれば、捨てられないものが残ってしまうのも悪くないのかもしれない。


 僕は、何かを行うときは、「まったく新しいことを始める」よりは「これまでやってきたことのつながりから始める」ことが多い。心機一転、これまで全くやっていなかったことに挑戦しようというメンタリティとは無縁だ。たとえば、鍵盤から金管楽器へ、クラシックからジャズへ、そして仕事のやめ方や変え方、いずれも「これまでやってきたこと」を踏まえた上で、「これまでとつながる別の何か」を模索してきたのだろうと思う。
 こういってもいいのかもしれない。常に未知の領域に挑戦するような気概は持っていない。そのかわりに、常に自分の過去を模索して、何が必要で何が必要でないのかを考える。自分が次に向かう先は、未知なる未来にあるのではなく、記憶の端にひっかかった過去の中にこそある。自分自身の過去と対話していく中で、未来に向かう道が見えてくるのだ。
 過去の自作曲との偶然の出会いは、その典型と言えるのかもしれない。


 そういう自分の過去と未来の繋げかたは、喩えていうなら「段落」みたいなものなのかもしれない。
 テーマや結論がガラリと変わると、それは「別の文章」だ。けれども、僕はずっとずっと「別の文章」を書くことをせず、何かの折に「段落わけ」をしているのかもしれない。一まとまりの時間を終え、次のステップに向かうときも、それは新たなテーマの始まりなのではなく、「前の段落」から引き続いた「別の段落」の開始なのだ。次の段落に何を書くか、それはこれまでの段落の集積から決まってくる。
 過去のものを捨てて、新しい環境を作ったとしても、それは文字通り「ひと段落」がついただけなのだ。ものは捨てても、過去は自分の中に生き続けている。未来はそこからしか始まらない。
 たぶん、僕はそういう生き方しかできないのだろうと思う。


4

 さて、こうしてある程度まで完成したデスク周りは、こんな感じ。

 せっかく仕事の環境を整備したのだ。仕事にも、そのための勉強にも、いい成果を出せるといいな。てか出さないとな。
 一方で、仕事の環境が変わったからといって、自分の生き方や何やらが大きく変わるわけではない。未来の自分はこれまでの自分の延長線上にある。それが自分のありかたなのだから。


 結局は捨ててしまったあのときのパッケージも、たぶんこの環境の中に生きている。だって、あのときは捨てられなかったのだから。それにはそれなりの理由があるし、今思い出したことにも理由がある。たとえ結果として捨ててしまったとしても、その理由の部分——それが一番根底にある部分に違いない——は、きっと僕の中で生き続けているはずだ。
 僕はそうやって生きてきたのだから。
 


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