孤独の城

1

 しばらくまともに音楽を聴くことがなかったのだけれど、久しぶりにこの曲を聴きたくなった。

 イタリアのピアニスト、エンリコ・ピエラヌンツィが作った「castle of solitude」。これまで聞いたジャズの曲で最も好きな曲の一つと言っていい。
 自分のライブでもセットリストに入れたことがあるのだけれど、例外なく共演者が「いい曲だねー」と感想を述べてくれた。どこか哀愁漂うその雰囲気は日本人好みと言われることもあるようで、要するにそういうことなのかもしれない。尤も、金管楽器で演奏するのに適した曲かと言われれば、微妙なところだ。

 この曲を教えてくれたのは、大昔に信頼していたとある女性のミュージシャンだった。「きっと同じ光景が見えると思う」と言って音源をくれた記憶がある。
 ちなみに、僕がこの曲から見えた光景は、人が誰もいない荒涼とした、しかし色彩の豊かな美しい草原。シベリウスの交響曲から雪と氷を無くしたようなイメージだろうか。一方で、教えてくれた女性は、確か湖のある森のような風景と言っていたような気がする。どちらも、うら寂しいが美しい自然を思い浮かべたようではあるが、同じ光景が見えたと言っていいのかどうかはわからない。
 ともあれ、以来何度も何度も聞いたのは間違いない。


2

 なぜ今この曲を聴きたくなったのか。正確なところはわからない。ただ、ここ数日、心がもやっとするような、あるいは考え込んでしまうような、そういうちょっとしたことが立て続けにあり、少し混乱しているという状況は関係しているかもしれない。人との関わりの中で混乱することがあって、それこそ「孤独の城」に閉じこもりたくなったのかもしれない。


 僕は、いわゆる「強い人」ではないと自己分析している。ちょっとしたことですぐ凹み、しかもそれが長い期間続いてしまい、日常の行動に大きく影響してしまうことなどしょっちゅうだ。交渉の末に相手の意識をこちらに向けたり、議論の末に相手の考えを翻させたり、あるいは仲良くなって信頼を得たり、いずれも苦手中の苦手だ。そういう分野でまともに成果を出したことなどない。当然、打たれ強さとも無縁だ。
 一方、何か自分のやりたいことを成そうとしたり、思うことを発したりすると、それに対する風当たりみたいなものが起きることは、いくつかの経験上当然だとも思っている。自分のやりたいことや思うことが、他人のそれと一致する保証などどこにもないからだ。だから、やりたいことをやるなら、そういう相手に対しメリットを訴えるなりして懐柔するか、あるいは圧倒的な知識や技量なり暴力的な手段なりを以て力ずくでねじ伏せるかする必要がある。当然、暴力的な手段に訴えるなら相手も反撃をしてくるだろうことは予想されて然るべき。そういう反応が嫌ならそういう手段を取らなければいい。

 なお、たまに勘違いをしている人がいるが、自分のやりたいことを「正論」という鎧で覆うことは、風当たりを弱めたり、敵対的な反応をする人を非難したりするための免罪符にはならない。自分のやりたいことはあくまで「自分にとっての正論」にすきず、他人にとっての「正論」と合致する保証などどこにもないからだ。自分のやりたいことを支えるのはあくまで「自分」であって、客観性をもった「正論」などではない。むしろ、客観的な「正論」に寄り添いたいのであれば、自分の都合をこそ括弧に入れるべきだろう。
 勿論、その「やりたいこと」と無関係の悪意や無法については、非難されるべきだ。だが、自分の「やりたいこと」が認められなかったりその方法が批判されたりしても、それは相手に非があるとは限らない。単に考え方の違いに過ぎないかもしれない。場合によっては、そこをどう説得するかこそが、「やりたいこと」をきちんとやるための必要条件になることすらあるだろう。


 このような「やりたいこと」をやるための様々な困難を、乗り越える力をもった人のことを、「強い人」というのかもしれない。
 ただ、僕は「強い人」ではないし、そうはなれない。そもそも、「強い人」でなくてはならない理由などない。

 だから、僕はある時から、「弱い人」としてどう生きるかを考えてきた。自分の意思を貫くために困難を乗り越える強さを身につけるのではなく、そんな困難を乗り越えなくても楽しめるようになりたいと思ってきた。多くの物事を抱えて辛い思いをするのではなく、極力自分の抱えるものを自分で抱えられる範囲に止めようとしてきた。やりたいことをやるために自分の枠を広げることを否定しないまでも、極力自分の枠内でやれることを模索してきた。
 それを怠惰だと非難する人もいるかもしれないが、その指摘には同意しない。そういう人がいたとしても、僕はそういう人と関わらないようにしたい。僕は「弱い人」なので、わざわざそういう人から文句を言われる機会そのものを作りたくない。別に議論すること自体は嫌ではないが、どうせそういう人とわかりあうことなどないだろうし、そうであれば自分の労力をそんなことに使いたくない。議論の基本的ルールがわからない人と議論しても徒労に終わるだけだ。
 そもそも、このような生き方に努力だの苦労だのが伴わないと思っているのだとしたら、それは単に想像力が決定的に欠落しているだけではないのか。


3 

 たぶん、今の僕は、そういう「弱い人」として生きることを、再度確認しようとしているところなのだと思う。おそらくは、無意識的に。

 仕事でも、趣味でも、なかなか思うようにいかないことが続いていて、そういう状況をなんとかして打破したいと思っていた。もうやめようと思っていたライブを、もう一度挑戦してみようか、そんなふうにも思った。もちろん、これについてはまだまだ熟慮が必要だけれど。
 ただ、思うようにいかないのは、自分の努力不足というよりも、本来の資質の問題だったりするのではないのか。自分の本来あるべき生き方や、弁えるべき分を超えた望みを、今でもまだ抱いているのではないのか。無理矢理「強い人」になろうとしているのではないのか。そういうことを、一旦落ち着いて考えなくてはならない。無意識的にそう思っていたのかもしれない。

 この先どうするかは自分で決めればいいし、それに対して誰かが何か言うのもまた自由。それにこちらが再反論するのもまた自由。何か言われるのがイヤなのであれば、何もしないか閉じこもるかの二択だ。弱い人間は、そういった分岐の中で
自分がどれに耐えられるのかを熟慮しなくてはならない。
 どういう選択肢を取るにせよ、一旦フラットな状態で考えないといけないし、考えるだけの時間と余裕が必要だ。弱い人間が生きるためには、それなりの準備と覚悟が必要なのだ。


 今の僕にとっての「castle of solitude」は、そういう俗世の耳目から離れ、自分自身の領分に立ち返るための曲なのかもしれない。
 弱い人間が弱い人間として生きるための、あるいは、荒涼たるしかし豊かな自然の中で、誰も寄せ付けずひとり閉じこもって思考するための、孤独の城。


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