批評の意義、あるいは言葉にならない「もやもや」について

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 来年度の準備が始まってくる3月、その準備や打ち合わせを通して、どうにももやもやする心情になっていた。ただ、その「もやもや」の内実がどうにもはっきりとしない。むしろ、はっきりとしないからこそ「もやもや」しているのだと思う。
 その「もやもや」に形を与えるために——いや、その目的に資するかどうかはわからないのだけれど——、ちょっと思うことを言葉にしてみたい。それは、ネット上で物申す人たちの中にいる、ちょっと毒舌まじりの正論を語る人たちのことだ。
 ただし、これから述べることは、あくまで今の自分の中にある「もやもや」を形にするための作業なので、彼らに対する非難ではないし、批判ですらない。「批判」の名に値するような内容は述べられない。あくまで自分自身の整理のために、自分の感情に形を与える必要があって、その補助線として使わせてもらうだけだ。


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 twitterであれyoutubeであれ、自身の知識や技術や経験を通して、世にあるさまざまな事象や言説に対して批判を加えている人たちを見かけることが多い。結論から言えば、そういうコンテンツは全く好きになれない。
 もちろん、好きになれないならみなきゃいいわけで、実際そうしているわけだが、ここで考えたいことは対処の方法ではない。
 実のところ、そういうコンテンツの中には、言っていること自体は至極納得できるものもあったりする。もちろん、言っていること自体がめちゃくちゃだったりすると、ああそういう人なんだなあと生暖かい目で見て放置すればいいだけ。むしろ楽である。けれども、言っていることそのものはものすごく正しかったりする場合の方が厄介だ。少なくとも僕にとっては。
 言っていることが正しい(と思える)人は、多くの場合、その分野におけるそれなり知識と経験を有している、その道のプロというべき人たちだ。だから、「正しい」という判断も彼らに比べて知識も技術も経験も劣る僕が行う判断に過ぎないわけで、その意味では生意気な評価ではある。それでも、僕から見ても正論だと思えることをはっきりと言えるのは、流石にその道の専門家だなあと感嘆せざるを得ない。そこは素直に敬意を表す。
 その上で、そういう「正論」を「毒舌」的に流すコンテンツは、端的に言って不快だ。内容には同意しその知識と技術に敬意を表した上で、それでも不快に感じる。このアンビバレントな感じがなんとも言えない感情を引き起こすのだが、結局は不快であることには変わりない。不快だから、どんなに正しいと思っても二度と見ない。
 解決策としてはそれでいい。おしまい。簡単な帰結である。けれども、どうしても気になるのは、なぜ「正しい」のに「不快」なのかということだ。


1.1

 先に、「不快」なコンテンツを制作している人の多くは、ある種の「批評」や「批判」を主題にしていることが多い、と述べた。そして、その「批評」なり「批判」は、世に溢れる「ウソ」「サギ」「ニセモノ」的なものを取り上げ、自身の知識や技術や経験に基づいてその欺瞞性を指摘するという形をとる。これも前述のとおりだ。
 このような形で行われる「批評」「批判」が不必要だとは全く思わない。特に、学術に関する内容では、こうした批判が不可欠な場合も多いだろう。また、創作物に対しては昨今こうした「批評」が少なくなっているように感じていて(これも個人的な印象に過ぎないが)、むしろもっとダメ出しの意味を含む「批評」が行われるべきだとも思う。
 加えて、「不快」なコンテンツに含まれる「批判」の内容それ自体も、繰り返しになるが間違っているとは思わない。
 にもかかわらず、なぜそれらのコンテンツに不快感を覚えるのか。これについては以前から考えていたのだけれど、多分理由は二つあるというのが現段階での結論。一つは、批評の基準が自身が敬愛する分野や存在という自身の外部にあること。もう一つは、批評的行為に本来あるべきと僕が思っている、創造性の欠落だ。この二つは、多分密接に絡んでいる。


1.2

 たとえば、音楽の専門家が発信するそうしたコンテンツは、自らが学び実践してきたジャンルに照らし合わせ、巷に溢れる「音楽」を批判するという形をとる。その場合、批判の基準となっているものは、多くの場合自らのジャンルの先達、言い換えれば自分が尊敬し目標にしている音楽家たちによる傑作である。ジャズであれロックであれR&Bであれクラシックであれ。そして、自らが真の音楽と信ずるそういう人たちと比べ、世に溢れる音楽がいかに至らない紛い物で、どんなに売れていたり人気があったりしていても「ウソ」「ニセモノ」であるという結論になる。
 これも繰り返しになるが、彼らの指摘そのものには妥当性があると感じるケースが多い。また、そのような指摘をしたくなる動機も、理解できる部分が多い。先人の実績を学ばずに「これがジャズですよー」「これがロックですよー」などと吹聴している人がいたとしたら、そのジャンルを真面目に勉強している人からすれば不愉快極まりないだろう。その心情は理解できる。
 それでも、僕はそういう内容をひたすら述べるコンテンツを不快に感じている。その理由の一つは、比較の基準が批評者個人の外側にあることを明示していることにある。そのジャンルの中で名声の確立した人物の実践が批評の基準なのだ。その批評者個人の価値判断というより、その人が敬意の対象としている人が批評の基準だからだ。僕からすればそれは、「虎の威を借る狐」にしか見えないのだ。

 件のコンテンツを発する人たちは、おしなべて謙虚である。当該ジャンルの先人たちから学ぶことに熱心である。そして、その先達に比べ、自身はまだまだ学ばねばならないことを自覚している。そうした態度は、音楽に限らず何らかの技術を習得する上では必要不可欠だろう。
 だが一方で、他者の実践を量る上で、多くの人が分野の先達と比較して劣ることは、僕からすれば「当たり前」のことに過ぎない。そもそも、多くの人よりもはるかに秀でているからこそ「先達」なのだ。僕は、そのような「当たり前」のことを、さも正論のように語る意味がわからない。
 批評的な行為に意味があるとしたら、先達とは異なる形であるがなぜか素晴らしいと感じるものを取り上げ、その新しさの意義を言語化するか、あるいはすでに権威となっているものや理解が安定したものを取り上げ、従来の理解とは異なる解釈を提示してその価値観を揺るがすか、どちらかだろうと思う。それこそが「批評」なる行為の持つ意味だと僕は思っている。
 件のコンテンツの作者は、これとは真逆のことをやっている。すでに確立した権威に基づき、それに至らない、あるいはそこから学ばないものを取り上げ、その劣性を指摘する。繰り返すが、その動機は理解できなくもない。ただ、あえていうならば、そのような批評は批評として楽すぎる。すでに確立した権威に基づく価値判断は楽なのだ。自分は傷付かずにものが言えるのだから。だから、一見謙虚に見える彼らの姿勢は、他者への批判という形で現れるならば、それは確立した権威を傘にきた尊大な態度にも映る。弟子にそのように指導するのは構わないし、必要なことかもしれない。けれども、不特定多数が触れるコンテンツとして面白いとか有益だとは、僕は思わない。
 批評をするならば、物事の新しい側面に光を当ててほしい。いや、自分は批評家ではなく作家or演奏家である、そう言いたいのであれば、作品や演奏によってそれを示してほしい。作品の受け手としてはそう思う。
 
 

1.3

 もちろん、そうしたコンテンツから何らかの新しさを感じ取る人もいるかもしれない。それはそれでいいと思う。単に僕が、そうしたコンテンツから何かを感じ取る能力が欠落しているだけなのかもしれない。要するに「縁がなかった」だけのことなのかしれない。
 だから、僕の文章は批判でも批評でもない。単に自分の心の中の「もやもや」を言語化して、整理しただけに過ぎない。


2

 SNSで何かを訴える人たちだけでなく、普通に仕事をしている人の中にも、これと似たような言葉を発することがあるのだと思う。場合によっては、それが自分に向かうこともあるだろう。
 不快なコンテンツを制作する人にも、動機としては理解できる側面がある。それは、偉大な先達に近づくべく努力をしていることだ。仕事をしている人たちも同じように、自らの仕事を完遂すべく努力をしているだろう。
 それでも、僕がある種のコンテンツに、その点では非難の余地がないほど努力している人が作ったコンテンツに対して、それでも不快感を感じてしまうことがあるように、誰かが僕に対して不快感を感じることもあるかもしれない。反対に、僕がリアルで会う人に対して同様の感想を抱くかもしれない。

 多分、現実の僕の身に起こっていることは、そういうことなのだろうと思う。 


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