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「強い」ということの意味——『天上の虹』の草壁皇子への思い

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 あるとき、なんともいえない状況で読み返したくなったのがこの作品だった。

 そう、里中満智子著『天上の虹』。持統天皇を主人公にした大作だ。
 これまでに、「泣かされた」という意味で印象に残っている漫画の登場人物が3人いるのだが、そのうちのひとりが本作に出てくる草壁皇子。主人公の長男にあたる。その生涯は、何度読んでも泣けてくる。
 おそらく、このときに読み返したくなった理由も、そこにある。

 今回、あるところに書いたものを多少修正して、ここにあげておきたいと思う。どうしてそう思ったのかはわからないけれど。


2

 作品の、草壁皇子に対する物語の大枠は、次のようなものだ。

【以下ネタバレを含みます】

 鉄の女、かつ感情豊かな女性として描かれる持統天皇と対照的に、息子の草壁皇子は心優しいがひ弱で凡庸。血統上後継の最有力候補だが、異母弟の大津皇子が非凡な才覚を持った人物のため、常に比較される立場にある。だが、草壁皇子には野心も乏しく「僕の代わりに大津が皇太子になればいいよ」とか平気で言ってしまう。ある意味、目標も野心も乏しい、覇気の足りない人間に見える。
 そんな息子を後継にしたい母親からは「能力を伸ばそうとする意欲が足りない」と叱責が絶えない。でも、草壁本人は思っている。自分は自分なりに努力してきた。大津がそれ以上に有能なだけだ。自分は統治者の立場には向いていないし、そもそもそうなりたいとも思っていない。

 それでも母親がゴリ押しすることをやめられないのであれば、自分なりに頑張ってみようか、そう思うようになってきたとき。
 父である天武天皇崩御のタイミングで大津がクーデターを起こし、しかも失敗して死罪となってしまう。その時に露見したのが、先代は死の間際に後継者を草壁から大津に変更する意思があった(それを大津にのみ伝えて公開しなかったのが政変の動機)こと、そして草壁の妃のひとりが大津と密通していたこと。
 こうして、これまでずっとプレッシャーに耐え続けた草壁の精神は、とうとう壊れてしまう。自分さえ存在しなれば、こんな悲劇は起こらずに済んだのではないのか、と。

 もうね、ほんとかわいそうすぎて、何度読んでも泣けてくる。
 散々面倒を見ていた正妃の阿閇皇女のほうが大変という指摘もわかる。それも正しい。けれども、それでも追い詰められて自分を否定し続けることになってしまった草壁の心境に思いを馳せてしまう。


 作中、草壁の唯一の理解者とも言える阿閇皇女は、草壁についてこう述べていた。

自分が傷つきやすい心を持っているから、人もきっとそうだ……と。あの人はそう考えているんですわ。
だから、いろんなことが起こると、ほかの人の心の痛みを想像して……その想像に耐えられなくなるほど苦しんでしまう

 ああもうね、わかるのよそういう発想。そういうネガティヴスパイラルというかね。もうね。

 これに対して、母である持統天皇は「痛みに耐えて生きている人の苦しみを考えれば、自分だって乗り越えらると勇気を出さなきゃ」と正論で返す。正論かもしれないが、個人的にはクソがと言いたくなる。そして、これへの返答として、作者は阿閇皇女に「それは強い人だから言える」と言わせている。まあ、そうだと言えばその通りなのだ。私もそう思う。そんなの様々な意味での力に恵まれた人の言い分ではないのか、と。
 ただそれ以上に、このあたりの展開から、作者里中満智子氏は、草壁の境遇に同情はしても、共感はしていないんじゃないだろうか。そんなふうに思っている。


3

 草壁の最大の不幸は、子どものころから親の期待に添えないことを実感し過ぎたために、根底の部分で自分を肯定できずにいたことだと思う。
 鷲田清一氏も述べていたが、いざというときに自分を支えるのは、無条件に肯定された経験と、それに基づく自分への信頼だ。草壁皇子に欠けていたのは、個人としての傑出した才能でも、精神的な強さでもなく、出自に由る「無条件に肯定された経験」ではないかと思う。

 実際のところ、阿閇皇女がいうように、草壁はやらずに諦めるような「意気地なし」じゃなく、「それはあの人はしたくないこと」というだけにも思える。散々大津との能力の差を見せつけられても、自分はそこまでの器じゃないことを自覚するだけで、誰かに当たり散らすことも、自分の身を過剰に嘆くこともしていない。自身の能力を客観的に捉えて分析し、自分のみの置き所のようなもの冷静に理解しているのである。見方によっては達観しているとも言えるかもしれない。
 そこまで自己客観視ができているにもかかわらず、自分を責める心理が最終的に勝ってしまう。これが草壁の不幸なところだ。それは、「自分は期待に応えられない」という幼い時から散々味わってきた思いが殊のほか強く、しかも別の道を模索することが許されなかったためだろう。それは個人としての精神の強さの問題ではなく、まして努力や修練の問題でもなく、他者との関係性の問題ではないかと思う。
 人と比べられ、人より劣ることを実感し、努力してもてが届かない領域があることを嫌というほど思い知らされ、それでも「努力しろ」と言われ続けることは、辛くないわけがない。期待に応えられないという思いを保ち続けることがしんどくないわけがない。まして、本人みずから選んだ道なのではなく、生まれによって選ばされた道なのだ。


4

 母親である持統天皇にもそれなりの背景があり、彼女だけを責めるのは酷かもしれない。それでも、もう少しやりようがあったのではないかとは思う。草壁の個人的な能力の問題とするには、あまりに彼が気の毒すぎる。

 父である天智天皇に「自分に似ている」と評されたほど冷徹な指導者になることができ、しかも夫である天武天皇の生まれながらの王者っぷりを目の当たりにしたいるのが、主人公の持統天皇である。上に立つ者に、いや、人間一般に、ある種の「強さ」を求めることは彼女にとって当たり前のことなのかもしれない。
 その「強さ」の代表は、いわゆる精神的な負担に耐えることができる力だろう。高い目標を持ってそこに向かって努力し続ける力、責任の重さに耐える力、自分の意志で決断してその結果を引き受ける力、いずれもある種の立場にいる人間には必要不可欠なものだろう。
 ただ、全ての人間が「ある種の立場」に立たなくてはならないということはない。そんな「強さ」を持ち続けられるのは、ごく一部の人間だけだろう。だから、そんな傑出した「強さ」を持たない大多数の人間は、自分の「身の丈」にあった生き方を選ぶようになっていく。
 もちろん、そうした「身の丈」にあった生き方を受け入れていく過程で、様々な葛藤はあることだろう。その人の目標が高ければ高いほど、その目標がその人にとって大切であればあるほど、その葛藤か大きなものになるに違いない。そして、その葛藤に悩まされ続け、なかなか受け入れられずに過ごしていくこともあるかもしれない。そのような人を「夢を追い続ける」と見るか、あるいは「現実が見えていない」と見るか、それは人それぞれだろう。それはそれでいい。人間はにはいろんなパターンがあるから。 

 ただ、少なくとも言えるのは、草壁皇子は自身の限界を早くに知った。そして、その限界を嘆いて自暴自棄になったり、それを他人のせいにして自己憐憫に浸ったり、まして他人を傷つけるようなことをすることはなかった。結果として妻の阿閇皇女に負担をかけることになってしまったが、それは今まで耐えてきたことの反動であり、草壁自身の資質の問題ではないと思う。
 つまり、草壁皇子は若年で「身の丈」を知り、その自分をきちんと受け入れているということだ。それは、持統天皇が求める「強さ」ではなかったかもしれない。けれども、それとは別の「強さ」を持っていると言えるのではないか。草壁を「弱い」という言葉で表現するのは、持統天皇の考える「強さ」を基準とした上での「弱さ」に過ぎない。私はそう思っている。


 人はいつの間にか、ある種の「強さ」を人間に不可欠なものとし、それがない人間を「劣った」とか「努力が足りない」と見做してしまいがちだ。
 その「強さ」は、時と場合によっては必要不可欠なものだが、それは同時に「他者を犠牲にすることを厭わない強さ」でもあるかもしれない。
 


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