リアルとフィクションの狭間

 たまたまだったのだけど、こういう記事を目にする機会があった。インタビュイーがたまらなく魅力的だったので、つい読んでしまった。

  そして、最後の一節がこれだった。

「100%否定するやつも100%信じるやつも絶望が足りない。もっと絶望しろ!」

 これはかっこいい。その通りだと思う。



 世の中、そんなにゼロサムにはできていない。

 つい先日妻と話したことだが、かつて人はプロレスだの川口浩だのといったメディアから流されるある種のフィクションを、その内容の真実性とは別に享受していた。おそらく「リアル」ではないことをわかった上で、真剣に楽しんでいただろうと思う。受容者がその内容に不満を感じることがあるとすれば、それが真実でなかったからではなく、フィクションとしての「設定に反していた」からではないだろうか。そういえば、以前テレビ番組でUFOマニアが、「このUFO映像は偽物だ。作為的に過ぎる。本物のUFO映像ってのはもっと奥ゆかしい」とか極めて謎なことを言っていたが、おそらくそういうことだ。
 そして、それらのフィクションは、全てが完全に作り物だったかといえばそうではなく、どこかに演じ手のリアルが含まれていたのだろうと思う。もちろん、その一部のリアルが、設定としてのフィクションのリアリティを保証するということではない。でも、そうしたリアルの存在が、フィクションを魅力的なものにしているのだろうとは思う。

 リアルとフィクションは、どこかで繋がっている。それは、かつては当たり前だったのではないかと思う。

 そもそもリアルはフィクション(=人為的な創作)を通してしか認識できない。自然科学の変化には「自然観」あるいは「パラダイム」の変化というある種のフィクションが不可欠だったし、人間的真実は文学の形をとってこそ現れる。
 リアルな世界というものは、本来、時間的にも空間的にも概念的にも区切られていないものだ。そこに区切りを入れて認識可能にするためには、人間から遠いリアルな世界を人間の側に引き寄せる仕掛け、すなわちフィクショナルな装置を介在させるしかない。フィクション=虚構=人為的な操作とは、現実と異なる架空の世界を作り出すだけでなく、リアルをリアルとして理解するために不可欠な仕掛けなのだ。
 だから、リアルとフィクションは共に手を取っているのが常態であり、ゼロサムではない。フィクションを排したリアルを認識しうると思っているのだとしたら、それ自体が「陰謀論」と大差ない。
 当然、これは科学を否定し陰謀論を称揚するものでは全くない。むしろ逆だ。


 川口浩的なものがすっかり消え去った昨今、人はあらゆるメディアの中に、過剰にかつ安直に「真実」を見出そうとしているように思う。でも、「真実」なんて、その辺に簡単に転がっているものではない。
 この『ムー』の編集長のいう通り、「真実」を掴めるとしたら、いかなる言説もメディアも100%は信頼できない(と同時に100%否定もできない)のだという徹底した「絶望」の先にしかない。「絶望」の末に、何を信じていいのか迷いながら、全てを信じ切ることができない膨大なテクスト群を渡り歩き、その末にわずかばかりの「真実」かもしれないものが、ようやく垣間見えてくる。「真実」とはそういうものではなかったか。


 
 だから、音楽であれ言論であれ、その価値を無条件に信じるなどということは、芸術や思想に対する冒涜なのだ。

 同様に、人を信じるなどというのも思考停止に等しい。信頼なるものは、何を信じていいかわからない中で、偶発的なものを孕みながら模索して、少しずつ少しずつ作り上げられていくものだ。
 そのもがきを伴わない直感的な信頼は、いつか現実の中で崩れ去る。君もそうだったではないか。

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