「らしくない」、または差異の認識について

1

 僕が言われて最もイヤな言葉のひとつが、「◯◯らしくない」。
 比況の「らしい」はいわば喩えを意味するものだが、要するにあるものを別の何かとの比較の上で判断するときに用いられる言葉であるはずだ。「男らしい」「女らしい」「子どもらしい」などといった具合に。

 どうしてこれがイヤなのか、正確にいえばこの否定形がどうしてイヤなのかというと、結局は何らかの規範に即して自分が判断されているから。例にあげたものでいうなら「男」「女」「子ども」はこうあるべきという観念があり、そこからズレていることを以て「らしくない」と言われる。でも、別に「らしくない」からって何の問題があるというのか。どうして男性であれば「男らしい」ことが正しくて「男らしくない」ことが正しくないと言えるのか。僕自身は確かに男性であることは確かだが、「男らしく」あらねばならない必然性などどこにあるというのか。そして何よりそれ以前に、そもそも何を以て「らしい」というのか。
 というわけで、この種の言葉づかいはそれだけでイヤな思いを掻き立てる。唯一の例外が「あなたらしくない」だろうか。

  一度、好きな人にこの言葉を言われて、ひどく不快だったのを覚えている。
 この言葉、好きな人だからこそ言われたくない言葉だ。だって、少なくとも僕は、「年上」「年下」「音楽家」「◯◯市民」「××という職業の人」「普通の人」といったカテゴリーに当てはまるからその人を好きになるわけではない。あくまで「その人」が、他の誰でもないその人がその人であるから好きになるのだ。
 だから、相手からもそのように思われたくはない。「年上」「年下」「音楽家」「◯◯市民」「××という職業の人」「普通の人」などのカテゴリーに、僕を押し込めて理解して欲しくない。そういうカテゴリーに属するから好きなのであれば、そういうカテゴリーそのものと付き合えばいい。そういうカテゴリーに当てはまらないことを非難するのであれば、それは「僕という個人」より「カテゴリーに合致する人」が好きなだけなのだから、好きなカテゴリーそのものと付き合えばいい。僕なんぞを選ぶ必然性はない。


2

 僕は、特に自分にとって大切な人の人柄については、世間的な尺度を用いて善し悪しを計らないようにしている。考えるのはあくまで、自分にとって都合がいいかどうか。世間一般と比較してどうかというのは、ほとんど関心がない。だからこそ、自分もそういう尺度で計られたくない。
 そうやって、人を可能な限り既存のカテゴリーに当てはめないようにすると、人と人との共通点より差異をクローズアップさせることなる。自分と相手の共通点より違いをより強く意識するようになる。結果として、共有できないことが多くなる。少なくとも自分からは「共有できないことが多い」ように見えてしまう。
 結果として、人とぶつかることが多くなる。実際にぶつかるのは大層面倒なので、人を避けるようになる。そうしないと社会の中に自分を位置付けることができないからだ。


 だから、よくわかっているつもりだ。
 やりたいことをやる、自分の思うように生きるということは、他人に負荷をかけることであるということを。


 僕は結婚しているが子どもはいない。半分はなし崩しにそうなったとも言えるが、半分は意図的なものだ。その意図は、自分にとっては誠実な回答であり、切実な結果でもある。
 けれども、自分にとって最善の結果は、同時に他者の希望を打ち砕くものでもある。「孫の顔が見たい」という親世代の素朴な希望は、僕の生き方の犠牲となったと言っていい。自分の思いを実現することは、他者の希望を奪うことなのだ。

 きちんと話し合えばいいのではという疑問も出るだろうが、そもそもこの種の問題を「話し合い」という場に乗せられるかどうかは、それ自体が高度のコミュニケーション能力を必要とする。しかも、自分だけでなく、相手の能力にも依存するものだ。話し合いで解決できるものではない。
 そもそも、話し合いになったとしたら、僕は相手の望みを受け入れる姿勢を見せてしまうと思う。そして、話し合った結果として僕が子どもを持つことになったとしたら、僕は自分の持てるもの以上のことを支えることになり、結果として潰れることになっただろうと思う。
 かといって、自分のあり方を説得しても、理解が得られるとは思わない。そもそもどう説明していいかもわからない。人が生きる上で望むことは、そう簡単に翻すことはできない。それが常識に裏付けられているとすれば尚更だ。
 だから、我を通すなら他者の希望を打ち砕く覚悟が必要になる。そのためにどのような方策を取るにせよ。

(ちなみに、「作らないのではなく出来ないと言えばいい」という話をかなり後になってから聞いて、目からウロコが落ちた気分だった。そういう発想は全く頭になかった。そういうことを思いつくかどうかは、完全に能力の問題だと思う。僕にはそのような「うまいことやる」能力は、完全に欠落している。)


 人は自分のやりたいことをやり、生きたいように生きるために、必然的に他者を巻き込み、他者の希望を打ち砕く。うまくやるというのは賢い手段だが、それはあくまで「うまくやっている」のであり、他者の希望を打ち砕いていないわけではない。
 そのこと自体を非難するつもりはない。むしろ、人は自分の生きたいように生きて全く構わないし、社会はそれを推奨すべだと思う。
 だが、そのために他者の望みを犠牲にしていることを自覚せず、自分の意思を通す強さのみを求めるのであれば、それはもはや害悪でしかないだろう。ましてや、自分の意思や希望を超えたところにこそある「正論」によって、自分の生き方の正当性を担保しようとするなど、愚の骨頂と言うしかない。


 それと似たような意味で、何かを表現することは、表現者の意図や思惑とは無関係に、受け手を損なうことがありうる。
 だからこそ、何かを表現するなら、受け手のことを極限まで考えて傷つかないよう配慮すべきだと言える。そしてさらに言えば、それでも受け手を傷つけてしまうことは十二分にあり得る。表現するとは、そうしたリスクを受け入れ、それでも表現しなければならないことを吟味し確信した上で行われるべきものだ。
 ただ、おそらく、誰も傷つけることのない表現は、それはそれで表現されるほどの意味や価値はないのだろうとも思うけれども。


3

 僕は、僕「らしく」しか生きられない。
 これは意図の問題というより能力の問題だ。

 でも、ぶつかり合った上で、それでも自分を保てるほどの強さは持っていない。ぶつかったときにうまくすり合わせができるような技術も持っていない。
 とはいえ、他人と同じカテゴリーに所属してうまくやっていけるほどの柔軟性もない。既存の「らしさ」に当てはめられても迷惑なだけだし、他者に対してそうするのも正しいとは思わない。
 これは要するに、自分の望む生き方や価値が他人のそれと衝突するときに、他人の希望を打ち砕くほどの意味を持つわけでもなく、かといって自分の望みを捨てられるほどの器があるわけでもない、ということだ。

 だから、極力ぶつからないように、人を避けながら生きるしかない。
 要するに、孤立するしかない。

 孤立するしかないからこそ、きちんと認めてくれる人の存在は、生きる上でものすごく重要になる。社会から文字通りほんとうに外れて生きることは難しいのが現実だからだ。どんな形であれ、存在をそのまま肯定してくれる人は、自分を救ってくれる存在だ。神の代替物といってもいいかもしれない。



 反対に、どんなかたちであれ、自分を否定したり拒絶したりする人は、自分の存在する現実世界から消えてほしい。ほんとうに消えてほしい。偶然出くわすことでさえ迷惑だからやめてほしい。そしてできることなら、僕が置かれた状況と同じ程度には、何か大切なものを失って欲しい。
 自分自身の生存や幸せや目標のために、僕が悲しんだり損なわれたり傷ついたりすることを選んだのだから、そういうふうに思われて当然だろう。僕はついそう思ってしまう。これは、その人に対する好悪とは全く別の問題だ。


 そういうふうに言われるのはイヤですか?
 だとしたら、こちらとしてはこんなにうれしいことはありません。だって僕は、僕を損なった人に不快になって欲しいし、不幸になって欲しいのですから。僕の言葉でイヤな思いをしたのであれば、こちらはとして本望です。どうぞ、思う存分不快になってください。


 あ、それとも、僕が何を言っても平気ですか?
 それはそれで構いませんよ。そもそも突き放すというか、そういう扱いをしたわけですからね。ただ、ああこの人は、自分の幸せや目的のために人にイヤな思いをさせても、何とも思わない人なんだなあと、そう思うだけで。
 そして、そういう人が、人を楽しませたり誰もが平等であることを願ったり、あるいは努力の価値を高く見積もったり、そんなことを口にしたとしたら、鼻で笑わせてもらいますけどね。ああ、こいつは今の自分の日常や幸せが人の不幸という土台の上に成り立っているという事実に、何の自覚も逡巡もなく、何の矛盾も感じてないんだろうな、って。


 え、「最低ですねあなた」、ですって?
 そんなの、すでにいやというほど知ってますよ。あなたよりずっと前から。あなたが思うよりも何百倍もの重みで。
 僕は最低の人間ですよ。それが何か問題でも?


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