おたんじょうび、というもの

 かつて、仲良しだった女性が、こんなことを言っていた。

「わたし、誕生日ってものすごくめでたいことだと思うんですよ。だって、その人がこの世の中に生まれてきた日なんですよ。」

 恥ずかしながら、僕はこのときまで、誕生日がなぜ「おめでとう」と言われる日なのか、全然わかっていなかった。

 誕生日に限らず、入学であれ卒業であれ結婚であれ、「おめでとう」という言葉が発せられる機会が、なぜ「めでたい」のか、実感として意識したことはなかった。結婚に関しては今でもわからない部分がある。
 ともあれ、総じて「祝福」ということの意味がわかっていなかった。だから、「誕生」が「祝福」されるということの意味もわからなかった。それは祝福される事態というより、端的な事実としてしか認識できていなかったのだと思う。



 僕が誕生を祝福と捉えられていなかったのは、祝福というのは努力や苦労を乗り越えた末にあるものだと思い込んでいたからなのだろうと、今は思う。
 おそらく、子どもの頃からずっと、僕は「理想や目標に向かって絶えず努力する」ことをよしとする道徳観を、どこかで内面化されてきた。このような考え方に基けば、存在はただそれだけで「祝福」されることはなく、努力の成果や達成をもって初めて「祝福」が行われる。すべき努力をしない人間は、「祝福」の対象にはならない。しかも多くの場合、その努力の方向性は、「祝福」を与えるべき人間が一方的に決定する。「祝福」は、努力、いや正確にいうならば「苦労や苦痛に耐えた結果」に対して与えられるものなのだ。そのような考え方を、漠然と埋め込まれていたのだろうと思う。
 だから、ただ生きていることに意味はない。どこぞの哲学者ではないが、「善く生きる」ことに向かう姿勢があって初めて、その生に意味がある。意味のない生は、当然祝福されるものではない。努力の成果としてあるべき「卒業」も、みんなが同じ時期に卒業できる以上、それは当たり前のことに過ぎない。誰でもできる当たり前のことが「祝福」の対象になるわけがない。そう理解していたのだろうと思う。

 10代のころは、今から見れば、こうした考え方とともに過ごしていた。「おめでとう」という言葉の意味がわからなかった背景は、多分こういうことなのだろうと思う。
 いつの頃だったかは判然としないが、いつしかこのような考え方からは距離を置くようになっていった。そのプロセスは、今は思い出せない。



 前に引いた、かつて信頼していた女性の言葉は、そうした10代の頃の考え方が変わったあとに聞いたものだった。
 考えは変わっていたけれども、それを明確に言語化することがなかったのだと思う。その考え方の変化を、極めて端的な形で言葉にしたものが、彼女のこの言葉だった。だから、とても強く印象に残っている。何か、気づいていなかったものを気づかせてくれた、そんな言葉だった。

 今は明確に思っている。努力や成果の有無で存在の価値が変わるような、そんな判断はしたくない。本来であれば、生まれてきたこと自体が祝福であるべきだ。
 もちろん、祝福する側も人間である以上、なかなか理想通りにはいかない。僕も、全ての人間の存在を祝福できるほど、人間として完成されてはいない。身近な人間をきちんと肯定し、その人のために何かができているかといえば、決してそうではない。そもそも僕は現実的な能力が欠落しているので、理念を行動に変換できていない。だから、言っていることとやっていることが違うと言われれば、否定はできない。
 それでも、存在の意味を努力や成果によって測ることはしたくない。自分がその人に対して何かできるわけではなかったとしても。

 少なくとも、自分の存在を祝福してくれる人がいたならば、その人に対しては、努力や成果にかかわらずその存在を祝福してあげたい。
 自分の能力の限界により、全ての人に対する祝福が現実的に難しい以上、せめて近しい人に対してはそうありたい。

 

 
 反対に、自分を否定する人に対しては、それは仕方ないので、僕とは関わらないでほしい。僕を否定する代わりに、僕の預かり知らぬところで、誰かと祝福を交わせばいい。
 ただ、そういう、2度と顔を見たくない人であっても、こうは思う。おたんじょうびおめでとう。あなたがこの世に生を受けたことを、心よりお祝い申し上げます。僕とは世界を共有できないし、あなたの幸せを願うなどというつもりもないけれど、それでもあなたの存在を祝福します。 


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