2020という年

 今年は、最悪の年だった。

 去年からその兆しがあったが、色々なものごとが自分から遠ざかっていった。それらの重要性には濃淡があるけれども、いろんなものを失っていったのは確かだ。そして、失ったものの中にとてつもなく大きなものが含まれていたことが、自分の年月から色彩を奪っていった。

 その結果として、精神に変調をきたした。
 毎年12月はなぜか情緒不安定になるのが通例なのだが、今年はその前から極度に不安定だった。前の日と次の日で言っていることが正反対になっていることなど日常茶飯事だった。自分の感情や思考が矛盾していて、混乱しているのだ。おかしな発言をしてしまった記憶も一度や二度ではない。
 病名がつくまではいってない。けれども、精神的ストレスが身体に現れたことが何度もあった。眠れないわりには妙に目覚めが早い時期が続いた。眠るのにアルコールの力を借りたこともあったが(多分もう2ヶ月は休肝日がないはず)、効果があったかどうかはわからない。吐き気については数限りない。トイレで呼吸を整えることも何度あったかわからない。心を病むまであと数歩だったのではないだろうか。
 仕事に穴を開けたりしたことはないが、いつもギリギリの状態で仕事をしていた。そのつもりはないが、結果としては質の面では劣ってしまった可能性は否定できない。だとしたらほんとうに申し訳ない。

 精神がギリギリの状態で生きていたせいか、10月以降の記憶がやや曖昧だ。いや、これは加齢によるものなのかもしれないけれど。
 そう考えると、本当に病んだ人の辛さは計り知れないものがある。昔の知人のことを思い出し、心が痛む。

 そして、自分自身のその状態は、今でも続いている。
 解決する目処は立っていない。


 その過程で、当たり前の事実に気づいた。それは、「人は皆、自分の都合で、自分の利益のために、自分の幸福のために、生きて行動している」ということだ。すでに知っていたはずなのに忘れていたことを再確認した、ということだと思う。

 先方の都合と合致しなければ、こちらがどんなに努力をしても、そして先方が求める結果を出したとしても、こちらが何かを得られるわけではない。都合が悪ければ、最悪こちらが切り捨てられることさえある。
 当然だ。先方は自分の都合で生きているからだ。向こうの都合とこちらの努力には、何の必然的な関係性もないのだ。
 そもそも、自分の都合で生きているのは、こっちだって同様なのである。そのように生きることは、何も間違ったことではない。

 だが、自分の都合や利益や幸福を重視すると言うと、現実的には角が立ってしまうことが多い。それらをいわばマイルドにするために、「信頼」「善意」「愛情」「思いやり」などという言葉が用いられる。
 人がこのような言葉を使うのは、自分の都合や利益や幸福を求めていることを隠蔽し、他人に比較的よく思われることを通して自己都合を貫徹するためだ。あるいは、そういう言葉で置き換えた方が自分が楽になるからだ。

 にもかかわらず、僕はこの事実を失念していたのだと思う。知らず知らずのうちに、人の善意なるものを信用しすぎていたのだと思う。
 でも、そこで僕が期待しているものだって、決して「善意」や「信頼」などではなく、実のところは「自分に都合のいい帰結」に過ぎないのだ。そんなものに他人が従わなければならない道理などない。

 他人の信頼や善意や愛情などを期待してはいけないのだ。自分も他人も、みんな自分の都合で生きているのだから。

 無条件の「信頼」や「愛情」が存在すると思ってはいけないのだ。


 自分の都合や利益や幸福を追求して生きるならば、利害が対立する相手とは交渉しなければならないし、あるいは関係性を決裂させる必要が出てくる。
 これは僕が不得手とする領域なのだが、不得手である理由は、僕の中に「他人を傷つけても実現したい自分の都合」がないからなのではないか、という気がしている。

 反対にいかなる場面でも対応できる柔軟性があるのかと言われれば、決してそうではなく、むしろ逆だ。そうなのだが、いざ交渉の場に立ったとき、そこまでして自分の見解をゴリ押しするかと言われると、そうでもない。むしろ譲ってしまうことの方が多い。この辺りが、現実社会でなかなかうまく生きられない最大の理由なんだろうと思う。

 それは多分、どこかで「自分の都合」を押し通すことに罪悪感のようなものを持っているからなのではないかと思う。もちろん、それはいささか子どもっぽい心理ではあるのだけれど。


 でも、だからこそ、どこかで信じているのだとも思う。個人の都合や利害に留まらない信頼や愛情というものの存在を。他者と利害の対立する個人の幸福ではない何ものかの実在を。

 僕が音楽を、それも生活の糧としてではなく完全なる趣味として音楽を続けているのも、そういう互いに衝突する「個人の都合や利害」を超える何ものかを求めているからなのではないかと思っている。
 我々の生きる現実が、そこに生きる人たちの持つ「利害や都合」によって構成されているのだとすれば、それを超える何ものかは、虚構とでも呼べる領域の中にしかないかもしれない。音楽だったり文学だったり、あるいはもっと別の領域であるかもしれない。
 そういうところにこそ、現実を超えて僕が求めるものが存在するかもしれない。どこかでそう思っているような気がする。


 正直なところ、もう現実の荒波をもがきながら生きるほどの精神力は残っていない。だから、自分のやりたいことを現実の中で形にすることは、僕にはもうできないだろう。
 もちろん、現実を否定することはできない。我々は現実の中で生きている。けれども、もう現実に対して何か希望を持てる気がしない。

 多分、自分にとって大切なものとは、現実の中にあるはずの美しさに気づかせてくれて、現実を生きる駆動力となってくれるもののことだ。
 今年失われたものの中で、最も決定的に大きなものがこれだ。そのせいで、今、僕は現実を肯定的に捉えることができない。現実の中にも美しいものが潜んでいることに確信が持てない。いや、美しさを感じることはできる。けれども、その美しさを通して現実を、そして世界を肯定することができなくなってしまった。
 僕はそれでもなくとも現実を肯定することが苦手な人間だ。その理由は、自分を肯定しきれていないからなのだと思う。そういう自分にとって、この欠落は大きい。


 音楽をしている間は、とりあえず正気でいられた。レベルはともかく、そうしながら生きる以外、術が見つからない。
 だから、僕にとって音楽は「楽しむもの」などではない。正気を保つためのものであり、生きることだ。格好をつけて言うのであれば、自分の魂の叫びだ。にもかかわずそれが伝わらないとしたら、単に自分の技術が未熟だからだ。あるいは魂をこめ過ぎて自己完結してしまっているからだ。


 今は、必死で音楽をしながら、待っている。
 自分の存在を肯定してくれる存在が戻ってくることを。
 世界に希望を見出すとしたら、それくらいしか術が見当たらない。
 尤も、それを「希望」と呼ぶべきなのかどうかは、正直わからない。 



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