純粋な世界


1 ユートピアだった子ども時代

 かつて、自分がいた音楽の世界は、年齢も性別も関係なく、ひたすら音楽が好きな人たちが集まって切磋琢磨していた。
 その世界は、どこにいってしまったのだろうか。

 少し前、こんな文章に触れて、自分と似たような心情があるなあと切なくなった。今、どういう思いで音楽に触れてるのかなあと想像しながら。

 けれど、その文章には、ひとつだけ認識の誤りがあるのではないかと思っている。
 その人がかつて体験した環境が理想的だったのは、それが音楽だからだったのではなく、「子どもの空間」だったからなのではないか。音楽空間を理想的なものにしていたのは、さまざまな現実を廃して音楽だけに専念できる「子どもとしての特権」だったのではないか。

 そのことを思うと、ますます悲しくなる。
 ますます僕に似ているように思えてくるからだ。


2 芸術の次元と現実の次元

 芸術作品はそれ自体として自律した作品空間を持っているものだと思う。音楽には音程や音量、そして音色という音楽を成立せしめる要素があり、それらを組み合わせて音楽は構成される。それ以外の要素がなくても、「作品」は成立する。
 このレベルの話を、芸術論的な次元と名づけておこう。

 しかし一方で、作品を鑑賞者のもとに届けようとするなら、芸術論的な次元の話だけでは事足りない。さまざまな社会のシステムだのインフラだのを活用する必要が出てくる。当然、人と金を動かす必要性が出てくることになる。
 このレベルの話は、現実的な次元と名付けておこう。

 広い意味での芸術活動あるいは芸術現象は、芸術論的な次元だけでなく、現実的な次元を含む形で成り立っている。後者の次元を無視して芸術はあり得ない。
 しかしながら、後者の次元は、前者の次元とは全く異なる原理や基準で成り立っていることも多い。その最たるものが金銭だ。これはほんとうに独自の原理を持っている。芸術論的な次元が経済的成功に不必要とまでは思わないが、純粋に芸術論的な次元での判断が即座に経済的な原理と一致する保証はない。
 しかも、この次元は「売る」という生活に直結する内容と結びつくため、芸術論的次元からすると排除したい原理まで入り込む場合さえある。単に購買者におもねったり制作者の性的魅力に訴えたりするだけでなく、強力な排除の論理を働かせてライバルを蹴落とすという、芸術論的次元を超えたレベルでの有害さと結びつくことさえあるかもしれない。

 このように現実的な次元の問題が絡むことで、芸術の世界は単純ではなくなっていると、僕は思っている。


 この現実的な次元について、リアルに考えなければならない状況を免除されているのが、子ども時代なのだ。
 スポーツであれアートであれ、現実的な次元は経験の豊富な大人が段取りを整える。子どもには些か難しい作業が多いからだ。あるいは、子どものうちから現実的な次元を云々することは、必ずしも正しいことではないとみなされる。いずれにせよ、結果として子どもは芸術論的次元に専念できる。
 要するに、純粋に芸術論的な次元に専念できるのは、大人という後ろ盾がある子ども時代の特権なのだ。面倒な人間関係や、集客や利益や、そんなことを考えずにひたすら音楽のことだけを考えていられるのは、そういう場を大人に整えてもらえる子どもだからなのだ。

 そのユートピアは、音楽だからではなく、子ども時代だからこそ成立したものなのだ。


3 大人の恋愛について

 これは恋愛と似た部分があるかもしれない。
 ただひたすら「好き」という感情で押し通せた10代の恋愛と違い、大人になり結婚を考えるようになると、収入や職業や家庭環境などのいわばデータ化された側面がだんだん重要になってくる。好きという感情だけでは通用しなくなるのだ。
 もちろん、大人になることで自分のことを冷静に捉えられるようになるということもあるだろう。それは、現実に適応しようとする大人ならではの判断といってよい。でも、そのような大人の恋愛は、体の内側から焦がれるような純粋な感情に貫かれているわけでは、もはやない。そのことを堕落とみなすか成長と捉えるかは人それぞれだろう。

 いずれにせよ、好きという感情だけで突っ走ることが難しくなるのは確かだろう。自分の生きる現実との兼ね合いを考えつつ、理性的に相手を選ぶ。純粋な「好き」だけでは事は済まされなくなるのだ。幸か不幸か。


 音楽も同じで、大人になることによって、純粋な音楽とは本来別次元にあるさまざまな「現実的な次元」の問題に触れざるを得なくなる。プロとして生きるならもちろん、ただのアマチュアとしてでさえ、そういう側面が増えてしまう。
 それが、庇護から抜け出す、すなわち大人になるということなのだ。幸か不幸か。

 そういった「現実的な次元」を目の当たりにして違和感を感じるというのは、子ども時代の純粋な心で大人の世界を垣間見て、大人の世界を汚いものと見なす心理と、どこか似ているのではないだろうか。


4 見果てぬ夢

 しかし、だ。
 そのことを重々理解した上で、それでもなお子ども時代のユートピアを追いかけようとするのは、何も非難されることではない。むしろ僕も同じような方向を向いていると言っていい。
 そりゃそうだろう。利益だの人脈だの余計なことを考えず、ひたすら音楽のことだけを考えていられたあのとき。純粋に音楽のことだけを考えられたあのとき。その時に感じた喜びは金では買うことができないものだ。現実の荒波の中でもがき続けなければならない人間にとって、「現実的な次元」から切り離された空間を体験できるのであれば、そんな幸せなことはないではないか。

 別に生活を背負って音楽をしているわけじゃない。シーンを変えたいとかいう野心があるわけでもない。ただ自分自身のために楽しんで音楽をしたいだけ。そうであれば、せめて音楽という空間でだけは、子ども時代の輝くようなあの日々を追いかけて、何を責められる理由があるというのか。
 しかも、こちらはそういう境地に至るまでに、どれだけの苦悩や逡巡があったと思っているのか。その末にようやく至った自分の生きる道を、何も知らない部外者が勝手に非難していいわけがない。


 だからこそ、冒頭の文章は、ものすごく共感するとともに、悲しくもある。
 これまで、いったいどういう思いがあったのだろうか。自分のたどってきた道と同じ道を歩いて来たのなら、どれだけの思いをしただろうか。それを想像すると、切なくてたまらない。
 もしかしたら、そのような苦しみを作った原因の一つは、僕にあったのかもしれない。けれども、だとしたら尚更切なくなる。


 僕は人間関係の上でも子どもじみてて、純粋な思いだけで物事を捉えているから、なおさらそう思わずにいられない。
 同類なんだよ、分身なんだよ、やっぱり。
 それが、僕の純粋な思いだ。


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