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目標、というほどのことではなくて

 昨年のいろんな出来事を思い起こすと、「ああ、自分は期待しているほどの評価は得られてはいないのだなあ」と思うことが何度かあった。

 それは、単にこちらの期待が自身の力量に比して大きすぎるだけなのかも知れない。自分の実力や成果に対する自己評価が高すぎるからなのかもしれない。だから、もっと自身の力量に謙虚になるべきだ、そういう結論は決して間違っていない。
 あるいは、他者の評価に一喜一憂するべきじゃない、もっと自分の目的に対して忠実たるべきだ、評価されることばかり意識して自分を見失ってはいけない、そういう返答もあり得るだろう。それも間違っているとは思わない。
 ただ、その上で、それらの正しさをかなりの部分で受け入れた上で、僕はもう少しだけ「評価される」ことを意識したい、そう思っている。

 それは評価されることそのものを目指すというのとは、少し違う。マーケティング的な手法を積極的に用い、売れるものを作ろうというのではない。市場に合わせて自分の作るものを変えようとするのでもない。
 むしろ、「自分の思う価値」に逃げないようにしよう、そういう意識に近いかも知れない。

 


 かつて、自分にとって音楽は自分を認めさせるための手段の一つだと言ったら、それは音楽への冒涜だと言った人がいた。言いたいことはわかる。音楽を自意識の手段とするなという思いはそれ自体としては正しいし、立場が逆であれば僕も同じような感想を抱くだろうと思う。ついでに言えば、原則としては、音楽とそれを発する人とは別のものであって、繋がってはいるものの、完全に同一視することは危険だと思う。魅力的に音楽を奏でる人であっても、人間的に合わないということは十分ありうる。
 
 それでも、先の反応は、僕がどのように音楽に救われてきたかをわかっていない。言っていることは正論だと思うが、その正論で僕が過ごしてきた具体的な人生を否定するに等しい。
 僕は音楽で飯を食ってはいない。その意味では、音楽はあくまで趣味であり、言い方を変えれば現実逃避の手段に過ぎない。けれども、そうだったとしても、あるいはそうであるからこそ、音楽は僕が存在する理由の一つだ。だから、僕の音楽を否定されることは、僕自身を否定することに等しい。
 だからこそ、僕は音楽に対して謙虚にあるべきだと思うが、その一方で音楽に関して舐められることをよしとはしたくない。言葉は悪いが、「その程度」の人に「その程度」と思われて、はいそうですよと納得したくはない。

 他人を攻撃したいのではない。実力で他人を納得させたいのだ。
 それは音楽だけの話ではない。
 
 

 現実というか市場というか、そういう大きな力の中で、自分が重要な位置を占めたいというわけではない。それでも、軽い扱いを受けてただ黙っていたくはない。
 「評価される」ことを意識するというのは、そういう意味だ。
 
 その程度の意味、というほうが正確だとも言えるかもしれない。
 

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