流れること、そして保たれること

 去年は、色々な意味でなかなかしんどい年で。
 もともとそこまで信頼していなかったはずの「努力」が、やはり報われない結果となった。自分の価値がどの程度のものなのか、わからなくなった。それでなくともわからなくなった世界と自分の結びつきが、もっとわからなくなった。
 一方で、思わぬときに思わぬところから思わぬ申し出があった。もう自分には遠くなったと思っていたことだった。そう思っていたから、望ましい結果にはならなかった。


 だから、今は思っている。
 世間的な価値基準とか評価とか、そういうものを安易に受け入れてはいけない。
 自分のアイデンティティを簡単に売り渡してはいけない。
 それなりに力を入れて積み上げてきたものを、あっさりと手放してはいけない。
 その時に関わった人のことを忘れてはいけない。

 自分が何者で、何をすべきであるかは、決めるのは自分自身なのだ。他人や世間が決めるのではない。
 他者との折り合いは必要だが、そのことで自分のアイデンティティが揺らいではいけない。他者がこちらを評価することはあるし、その評価を受け入れざるを得ないことはあるけれども、それに自らの全てを受け渡してはいけない。
 自分のあり方は、世間の基準といかにずれていようとも、自分が決めなければならない。

 その一方で、自分のあり方を無闇に固定するのではなく、ある程度は流れに任せていたい。世界や周囲との関わりの中で、自分自身の形を柔軟に変えながら、それでいて自分の中心は何も変わらないように。自分のあり方にこだわりすぎて、結果として自分を壊してしまうことがないように。 


 だから、少し前に決断したことを、少しだけ緩めるつもりでいる。
 当時に決断したことは、そんなに軽いものではなかった。それなりの痛みを経験した上での、ある種の重さを持った決断だった。その時に思ったこと、考えたことは、今でもなお完全に翻ったわけではない。
 それでも、それでもなお、その決断を少しだけ覆そうと思っている。そのときにはその決断が本当に正しかったと今でも思う。そして、その決断の持つ意味は今でも重く、また今の自分に生き続けていると思う。けれども、それをわかった上で、その決断を一部翻すことが、今の自分にとって正しいのだとも思うのだ。

 世間的な基準と距離を置き、同時に世界の流れに身を任せるためには、かつてその決断に至った痛みを抱き続けながら、同時にその決断そのものを一部翻す必要があるのだと、今は思っている。


 実際、そうすべきだという流れになりつつある。今日もそうだった。
 だから、今年はそういうふうに生きようと思う。


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