評価されることと、自分のすべきこと

1

 先日、自分の仕事に対する職場から(であると同時に「顧客」から)の評価を受け取る機会があった。評価といっても、あくまで統計的なものであるに過ぎないのだけれど。
 それでも、この瞬間は楽しみであると同時に緊張する。自分の仕事に対する評価や批評を聞くのは、必ずしも嫌なことではない。あまりひどい評価だと流石に凹むが、ネガティヴな評価や批評は改善点の明確化でもある。それは自分の仕事の質を高めるための貴重な材料でもある。ただ、仕事である以上、評価が翌年の仕事のオファーに結びつくこととなるため、その点ではどうしても緊張を余儀なくされる。
 おかげさまで、今回の評価は必ずしも悪いものではなかったと思う。一部に昨年より数字が落ちている分野もあったし、目標としていたものには届かない部分もあったが、それでも予想以上の高評価もあった。総じて、手放しに「いい」と褒められるほどのものではないものの、なんとか及第点というところだろうか。
 

 こうして形で自分の仕事が数字となって現れてくるのは、ある面ではとてもわかりやすくていい。その数字を100%信用できるかどうかはともかくとして、言い逃れできない形で現れると、ある意味での開き直りが可能になる。数字さえ残せばあとは好きなようにできるということでもある。少なくとも、組織内での気配りや人脈形成が評価の対象になるよりは、はるかに僕にとっては都合がいい。
 それでも、仕事の具体的な場面や「顧客」の顔を思い浮かべたりしながら、自分に突きつけられた数字を見ていると、自分のしてきた仕事への様々な思いが交錯する。その数字にからなかなか目が離せなくなる。よかったときと悪かったときは、一体何が違っていたのか、何をすべきだったのか、そんなことを考えつづけける羽目になる。それは必ずしもいいことばかりもたらすわけではない。


 「数字」という表現方法は、とてもわかりやすいことは確かなのだが、わかりやすいということは当然そうであるが故の落とし穴を持っている。わかりやすいという性質そのものが難点なのだと言ってもいいだろう。
 さらにいえば、僕に与えられたその「数字」とは、「統計」である。言い換えれば、仕事の内容や相手の反応を集合体としてみているということだ。個々の仕事の質や効果、そして相手一人一人の反応を、具体的に聞き取れているわけではない。もちろん、僕が知らないだけで、統計という方法そのものの世界はもっと精緻で、僕がここでいう限界を乗り越えている(或いは乗り越えようとしている)のかもしれない。けれども、僕に突きつけられた数字は、まだそういうレベルの内容を表現しているとは言い難い。
 数字というわかりやすい表現方法で伝えられた僕に対する評価は、こうした限界を持っている。だから、その限界を理解した上で受容しなくてはならない。こう言ってもいいのかもしれない。統計的な数字としての評価を向上させるためには、対象を集合としてみる「統計的」なあり方から一度離脱する必要があるのではないか。人間をいわば群衆のような集団として捉えることから離脱する必要があるのではないだろうか。


2

 ここで、仕事ではなく、趣味の音楽の話をしよう。

 僕は音楽については一介のアマチュアに過ぎないけれど、それでも人前で演奏する機会をいただくことがある。ありがたいことである。その場合、お客さんには当然お金を払っていただくことになる。畏れ多いことである。
 だから、聞いていただく人に満足いただけるようなレベルのものをお届けしようとする。頑張って練習するのは当然のことであるが、それだけではなく、場合によってはセットリストなどをどうしようかと頭を悩ませることになる。自分の力を超えたものをやろうとして品質が下がるのはもっての外であるからだ。
 ただ、そこで考えたことがある。自分はプロではない。演奏技術的にも、音楽の知識という面でも、またステージ上でのプロ意識という面ですらも、並み居る職業音楽家の方々に比肩しうるものなどない。そういう人間が、人からお金をとって演奏する意味があるのだとしたら、それはいったい何なのだろうか。
 そもそも、自分が人に向かって音を発する意味など、どこにあるのだろうか。一体誰が、僕の発する音を求めているのだろうか。

 そう、僕が演奏をする意味など、世の中にはないのだ。そもそもが、必要とされないという前提で音楽をやっているのだ。

 それがわかったとき、僕のすべきことは、自分がやりたいことをどこまで求めるかにかかっている、という結論に達した。
 相手の求めに応じて臨機応変に対応できるほどの技量などない。市場の求めるものを理解するほどの能力もないだろうが、仮に理解できたとしてもそれを現実に作り出す力はない。僕程度の能力で、相手の求めに応じようとするのは、むしろ思い上がりというべきなのだ
 だから、僕は僕のやりたいことをやらなくてはならない。やりたいことで、できる(と僕が判断する)ことをしなくてはならない。それが、多くの人に受けいられるかどうかは全くわからないし、これまでの経緯を踏まえるならそれは望むべくもない。けれども、そうすることが自分の音楽をする唯一の意味だ。その結果として人前で演奏することができなくなったとしても、それはそれで仕方ないことなのだ。


3

 仕事を趣味の音楽と同列に語ることが適切だと思っているわけではない。けれども、「統計的」な成果を少しでも上げようとするのであれば、同じように考える必要があるのではないだろうか、と僕は思っている。
 少しでも多くの人に受け入れられるようにとか、万人に当てはまるものをとか、そういうマーケティング的(?)な発想をするより、自分はその分野やその領域やその問題についてどのように考えるのかという、自分なりの視点や立ち位置を確保すること。それが「やりたいことをする」ということなのだろうと思っている。それはもちろん、自分の思いをただ相手に押し付けるのではなく、それ以前にその「自分の思い」とは一体なんなのかをきちんと言語化することだろう。それは同時に、自分には何ができるのかを明確にすることでもあるだろう。
 それができて初めて、人から求められるような状況が作られていくのではないだろうか。

 多分、僕は周囲から思われている以上に、他人の要求に応えようとし過ぎるのだと思う。より正確にいうならば、出来もしないのに応えようとしているのだと思う。もう少し、他人の要求に応えるほどの力量などないことを自覚することから始めなくてはならないのだ。
 だから、何ができるのか、何がやりたいのかを明確にしなくてはならない。その点に関しては、仕事も趣味も同様なのだと、今は思っている。やや遅かったというべきかもしれないけれど。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?