「愛」とはつまるところ「都合がいい」

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 プラトン『饗宴』によれば、ソクラテスは愛について、それ自体が価値なのではなく、価値あるものを求める心の動きだと説明していた。この説明は至極納得のいくものだ。それが大切な人であれ、あるいは何らかの理想であれ、それを「愛する」とは、その対象を求める心の動きなのだ。さすがソクラテスというべきか。
 ただ、「価値あるもの」とは何か。それは結局のところ、「その人にとって価値あるもの」というしかない。ソクラテスは、もしかしたら普遍的な善だの真だのに向かう心理として「愛」を想定していた部分もあるかもしれない。もっとも、『饗宴』を読む限り、純粋に性愛に近いものを想定していたようにも思える。だったしても、それらに大きな差異を認めていなかったのかもしれないとも思う。ともあれ、太古のギリシアに生きる人はともかく、現代の我々にとってみれば、「価値あるもの」とは結局のところ、その人にとって価値があるものとしか言いようがないだろう。
 そうだとすれば、こう言い換えることができるかもしれない。愛というものは、自分にとって都合のいいものを求める心の動きだ、と。そして、そういうものである以上、愛とは極めて身勝手なものなのだ、と。


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 ソクラテスがわざわざ、愛とはそれ自体が価値なのではないと言うということは、当時の人にとって愛という言葉にポジティヴな価値判断を求める傾向が強かったことを示しているのだと推測する。
 それは当時だけでなく、現代に生きる我々にとって同じだろう。親子の愛、夫婦の愛、同朋への愛、いずれもそれ自体に大きな価値が見出されているように思う。だから、それが欠落している場合には、その人に対するネガティヴな評価が与えられることになる。愛とは、そうあるべき理想的な姿、あるいはそうあるべき善き心の動き、というような意味合いがつきまとう。
 けれども、愛という言葉をそのような意味で用いることは、単に漠然と好ましいと思っている物事を「愛」という名前で呼んでいるだけ。その言葉の内実について説明したり定義したり価値づけたりしているわけではない。

 実際問題として、親子であれ夫婦であれ恋人であれ、その「愛」ゆえに嫉妬したり苦しんだり相手を傷つけたりすることも多いだろう。相手を求める思いが強かったり、相手のことを身近に、あるいは深く考えたりするからこそ、苦しむことだって多い。結果として、互いが望まない結末になることだって多いだろう。
 それらを、「愛情が足りないからだ」と片づけるのは容易い。では、その時に必要な「愛情」とは一体何なのか? 「相手の立場に立って考えること」? 仮に、それが大切なのだとしよう。確かにそういう場面も多い。けれども、だとしたらなぜわざわざ「愛」などという言葉を使う必要があるのか。「思いやり」でも構わないだろう。いや、「愛」には「思いやり」も含まれるのだと返されるかもしれない。では「自己愛」という言葉をどのように説明すればよいのか。自分に対する思いやり? さすがに「自己愛」という言葉をそうした意味で用いることはないのではないか。

 だからこそ、愛という言葉を「価値あるものを求める心の動き」とみなすのは、かなりいい線をついている解釈だと僕は思う。
 そして、その際に求める「価値あるもの」とは、あくまでその人にとって価値があるものであるに過ぎない。自分の子どもであったり、伴侶であったり、あるいは自分自身であったり、と。


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 愛する対象は、詰まるところその人にとっての価値あるものであるならば、世間一般に認められた価値とは異なっていても一向に構わない。
 人を愛するにしても、見た目が美しくなかろうが、生活力が無かろうが、あるいは金はあるけど人格に問題があるように見えようが、一向に構わない。その人にとって価値があるならそれでいい。
 あるいは、芸術を愛するあまり、他者や生活を犠牲にしたりすることもあるかもしれない。あくまで自分自身にとって価値あるものを求めるのが「愛」だとすれば、そういうことだってありうる。そのような人は、芸術に対する愛が歪んでいたというより、社会性が欠けていたというべきだろう。それらは互いに別の領域に属するものなのだ。
 あるいは、愛とは自分にとって価値があるものを求めるものだからこそ、世間的な常識から逸脱するような関係性にも発展することがある。もちろん、そのような関係性の是非を問う必要性がある場合も多いだろう。けれども、それは善悪や社会的合意の問題であって、愛とは別の問題というべきだ。そもそも、愛とは「自分にとって価値があるものを求めること」であるならば、その定義に対象の善悪は含まれない。社会的に見て不道徳なものを求めることがあっても不思議ではない(不道徳ではあるけれども)。愛と善は別のジャンルに属するもので、両者が一致することもあれば、不幸にも一致しないこともある。それだけのことだ。


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 かように、愛とは面倒なものだ。そして、大層わがままなものだ。
 そもそも、愛を「自分にとって価値あるものを求める心」だとみなすのであれば、それは言葉を変えれば「自分にとって都合がいい」という意味であるに過ぎない。愛とは大層わがままなものなのが当然だと言える。
 確かに、ソクラテスのいう愛に、その対象に向かって自分を高めていく要素があったかもしれない。価値ある対象を求め、それに向かって自らを成長させる動因となるのが愛なのだ。だから、決して自己中心的なわがままを意味しているわけではない、と。
 だとしても、少なくとも現代においては、どこに向かうかは自分の都合で決められる。誰かから求められてそうするわけではない。愛する対象は自ら選択できるのだ。だとしたら、結局のところ自分にとって都合がいいわがままな生き方を追求することになってもおかしくはない。結局のところ、自らの求める価値に向かって誠実に生きることは、自分の都合のいい生き方を積極的に選択することに等しいだろう。
 愛とは、そうしたわがままで手前勝手な心の動きを、耳障りのないようにオブラートに包んだ上で綺麗に包装した言葉に過ぎない。自分のとって都合がいいことを、誰から見ても価値あるものであるかのように見せる、一種のマジックワードであるに過ぎない。


 もっとも、だからといって、愛という言葉を否定しようというわけではない。
 わがままだって構わない。自分の都合だって構わない。そう生きることを否定する要素などどこにもない。
 でも、僕であれば、愛する物事は秘密にしていたい。自分の都合であり、わがままだからこそ、ひっそりと隠しておきたい。大切な恋人を友人に紹介して広く知らしめるなど、全く興味がない。愛とは個人的に価値があると思うものであるから、社会との関わりがどうとか、原則的には関係がない。それは社会的動物という生きる上では必要なことであったとしても、それは愛とは関係がない。
 
 愛とは、あくまでも個人的な都合で求めるものだ。
 だから、愛は他人からは見えない密室で育まれるべきなのだ。


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