みおくり

 かつて、僕には「同志」と呼べる人がいた。

 その一人とは、学生時代を除いた僕の音楽経歴の中で、最も濃い時間を共に過ごした。あくまで趣味としての活動ではあったが、趣味なりに本気だったと思う。当時一緒に音楽した仲間はみな、年齢も性別もバラバラだったが、愛好家としては技量に優れ、人ととしても気が合った。その時が、僕が最も楽しく音楽生活を過ごした時代だったのではないかと、今になってみて思う。
 中でも、その「同志」だった人とは、本当に色々な話をした。僕よりは年少の女性だっだが、互いに信頼する関係性を築いていた。彼女は僕の人生の中で、直接の会話と文字でのやりとりの両方で、最も濃密な会話をした人なのではないかと思う。後にその人以上に多くの幸福なやりとりを交わした人はいたが、「濃密」という意味では件の「同志」が群を抜いていると思う。

 「濃密」という言葉で表される内容は、自分の奥底に到達するという表現が最も相応しいように思う。それまで他人との間に何らかの距離を置く形でしか人と接することができなかった僕が、多分人生で最初に心の底からやりとりをした相手がその人だったと、今でも思っている。
 僕は普段考えていることをスピーディーに言葉にすることについては、必ずしも得意としているわけではない。ただその一方で、人の話を聞くこと、そしてゆっくり時間をかけて「書く」ことは、そこそこ得意だったようだ。彼女は、そうした僕のある種の言語能力を開花させたのだろうと思う。きちんと文字でのやりとりを読み、こちらの内容を理解し、それに対して適切な言葉で返答をしてくれた。そのやりとりは、僕にとってこれまでにないくらい深いところに到達するコミュニケーションだった。そのような意味での快感を得られたやりとりは、彼女との対話だけだと言っていい。
 彼女は、僕の言葉が好きだと強調していた。それは僕にとってはこの上ない褒め言葉の一つだった。だからこそ、言葉のやりとりが深いところまで到達し得たのだろうと思う。


 けれども、コミュケーションが深いところに到達するということは、普段は表に出ることのない、あるいは出すべきではないところにまでやりとりが進むということでもある。時にそれは、僕の柔らかいところを刃物でえぐるような結果になることもある。
 そんなわけで、彼女とのやりとりは、心地よさと同時に大きな苦しみをもたらすものでもあった。おそらくそれら二つは、人間関係において切り離すことのできないものなのだろうと思う。心地よさが得られれ得られるほど、苦痛も増大するものなのだろうと思う。
 どんなに信頼する相手でも何でも話していいわけじゃないということを実感し、以後仲の良い相手にも(以前とは別の意味で)一定の距離を置くようになったのは、この体験に由来する。親密な間柄であればあるほど、秘密を必要とするものなのだ。

 
 ただ、それでも。多くを語り、多くを認め合った間柄であったことは間違いない。「多く」「強く」というより「濃密に」語り合った人としては、彼女に及ぶものは一人もいないと思う。人と関わることの喜びと同時に辛さをこれ以上なく味わわせてくれた人だった。紛れもない「同志」だった。相手がどう思っているかはともかく、僕はそう思っている。


 それほどの結びつきであっても、ひょんなことから疎遠になる。そういうものだろうとも思う。その後の活躍は、間接的には当然知っている。けれども、もう何年も対面していないし、文字でのやりとりもしていない。今後も、もう会って話すことはないだろうと思っていた。
 けれども、二度と話すことができなくなるとは、流石に思っていなかった。


 彼女の音楽の動画を見ることにした。変わらないように思える姿と、「あ、こんなことも、こんなふうにもやるんだ」という、意外な面の両方が見えた気がした。当然のことだ。何年もあっていなかったのだから。
 それでも、面倒見の良い姉御肌と夢見る乙女の両面を持ったその人柄は、なぜか変わっていないように思えた。もちろん、ただの幻想かもしれない。


 一瞬だけだったが、僕と関わって一緒に音楽をしたことが、彼女にとって意味があったのか、それは僕にはわからない。
 けれども、意味があるものでありますようにと願う資格は、僕にはない。
 


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