日記-静かな退職について

静かな退職とは何か

最近、静かな退職が流行っている。アメリカ由来の考え方であるが、最近は日本でも関連著作を本で見かけたりする。英語では、Quiet Quitting。静かに辞めるとは一体どういうことであろうか。
ネット記事やYouTubeでの紹介をまとめると、要するに「与えられた業務しかぜずに、残業を完全に拒否する割り切った働き方」の理解が一般的であるようだ。むむ、それは雇用契約上当然のことではないかと思ったのだが、きっとそれはいかに日本の、そしてアメリカの労働環境がハッスルカルチャーに支配されていたということなのだろう。

私が勤める会社でも、いつしか主体的に頼まれたこと以上に働くことを意識的に求められていた。新人は進んで仕事を取りに行けとか、やることが無くなったら同僚を手伝おうとか。助け合いは素敵なことだが、しかしつまり与えられた以上のことを当然のようにやることが、なぜか一般的なこととみなされてしまっていた。なるほど、何故業務時間が形骸化し、挙句の果てには不必要に残業を望む人間がいるのか。無意識に私たちは、雇用条件以上、ノルマ以上、与えられた仕事以上に働くことを自然にするまで規律化されていたのだ。労働時間内で終わらない仕事の押し付けは御法度として。と言うか、何故当たり前のように拒否権が無いのか。

脱線から本線へ。そうしたハッスルカルチャーに嫌気がさしたことと、経済政策への不信の高まりが相乗効果となり、静かな退職はブームとなっている。資本家の時間と労力収奪から逃れる大事な機運だと感じるが、何も明るい話ばかりでも無い。アメリカでは、静かな退職を実践した結果解雇されたとか、日本ではそういう姿勢の社員は押し並べて低賃金とか、結局命の手綱を資本家に握られている以上、うまく立ち回らない限り生活を苦しくする危険性がまとわりつく。静かな退職は、抵抗の火付にはなっているが、まだまだ限定的な影響力しか持ち得ていない。
ところで、日本にも窓際族と言う言葉があるが、否定的な意味で用いられることも多いが、あれも一種の静かな退職であったのかもしれない。一つ手がかりに、日本の労働環境でどのようにして静かな退職が成立し得るか考えてみよう。

静かな退職の実践方法を考える

①ゆるい労働環境を選ぶ
第一に、雇用条件が大事である。休暇数、一日あたりの拘束時間、この辺りの条件は絶対である。給料は一旦考慮しすぎない。暮らしに必要なだけあれば良い。時は金よりも重要なのだ。ただし、ゆるい労働条件の会社は、土台レアな存在で、それなりの倍率を見込む必要がある。この時点で、静かな働き方は、ある種のふるいにかけられた特権的な立場の人に独占される恐れがあるのだ。努力しないために努力を強いられる矛盾がそこにある。

②会社で公私の太く深い線を引く
次に、会社での振る舞いについて。一言で言えば、公私をしっかりいと分け、そこに明確な線を引いていることを分かりやすく示すことをする必要がある。プライベートを大事にしていることを宣言し、定時になれば一目散に逃げて行く。「あの人はそう言う人」と認識され、その線の内に踏み込ませないことが肝要だ。もちろん飲み会には出ない。しかし、これもノルマ分だけの仕事を要領良くこなすことが大事だ。私を大事にしているのと同様に、雇用条件に書かれていることも遵守すること。契約は重大でそれを満たしていれば、何を言われようと反論する権利がある。

③手を抜く技術を身につける
最後に、意外とこれが大事なのだが、手を抜く技術を習得していなければならない。というのは、前談の通り、ハッスルカルチャーが自明な文化で、手を抜くことは自覚的になされなけれる必要がある。統治されない術を実践せねばならない。つまり、なんとなく上司に褒められて嬉しくなり仕事を頑張ってしまうとか、ちょっと同僚を負かしたくなり頑張っちゃうとか、そういう見え透いた誘惑に負けず、意識高く労働の欺瞞を認識し逃れ続ける姿勢を保つということだ。人間は気付くと隷属する安心に向かい、自由を自ら放棄するものだ。

とにかく、静かな退職は、気軽さを求めるはずが、多大な労力を必要とする矛盾を抱えている。あるいは、競争の下に実現するという意味では、能力主義を逆に強化する帰結に陥る恐れもある。おかしなことだが、本来おかしいのはこの社会構造なのだ。静かな退職ムーブメントの今後が注目される。まずは、個人レベルでは、進んで窓際へ向かい、真っ先に帰る実践から始めよう。臨んで余剰労働はしないことも。

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