連載:「写真±(プラスマイナス)」(倉石信乃×清水穣)第1回 観光 / やさしさについて 文:倉石信乃

「写真±(プラスマイナス)」概要/目次

第1回 観光
やさしさについて  文:倉石信乃
<faitiche>の成立  文:清水穣

1 

 1960年代後半から70年代前半にかけての日本において、メディア批判の書として先鋭的な写真家たちによく読まれた翻訳書に、ダニエル・ブーアスティンの『〈幻影〉の時代』(邦訳1964年)とハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーの『意識産業』(邦訳1970年)がある。二書に共通するのはメディア批判としてのツーリズム批判を含み、本来的な「旅行」と「観光」を弁別しようと腐心している点である。ツーリストは「全世界が擬似イベントのための舞台となることを要求している」と説くブーアスティンの観光批判は、東浩紀が『観光客の哲学』(2017年)の中で指摘するように、確かに「単純」で「現在では通用しない」ものだろう。ただブーアスティンが「旅行者から観光客へ」という移行過程の結論として、「われわれは見るためにではなく、写真を撮るために旅行する」と直言している点は、インスタグラム時代の今日でも、依然として味読されて然るべきところがある。「擬似イベント」としての観光を、撮影行為が先取り的に保証してしまうというこの断定は、当時これを読んだ日本の写真家にとって切実な自己批判へと折り返す契機を持っていた。
 『朝日ジャーナル』誌を主戦場の一つとしていた中平卓馬は、こうした擬似イベント論をなぞるようにして、実作においてはツーリズム批判の作品《とらわれの旅》を制作し同誌1972年12月22日号で発表した。カメラをぶら下げた団体旅行の客たちが、時間に追われて旅程を消化し、外部との遭遇よりもあらかじめ入手していたイメージを模倣する行為としての撮影を反復する様子が、あからさまに脱力したカラー写真と風刺的な言葉で戯画的に綴られた。その批判ぶりは確かに擬似イベントの直截的なパロディなのだが、それ以降の中平は、観光以外の旅の可能性を絶えず自問しながらその困難を痛感するうちに、次第に撮影自体の放棄にさえ到り着く。つまり、カメラの視線ではなく「肉眼」でただ見るだけのことをする他はないという強迫的な選択を抱え込んだ。それは「すべてが可視的だ。・・・疑いをさしはさむことのできないように可視的に存在する」(「わが肉眼レフ—1974・沖縄・夏」、1974年)と彼が見なした、沖縄の現実の風景との遭遇において生じた。
 前掲書におけるエンツェンベルガーの観光批判もまた、中平をして、当時の国鉄の推進した観光事業「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンにおけるイメージ戦略に対する批判へと駆り立てた際の、理論的背景の一つを成していた。ただしエンツェンベルガーのメディア論は、ブーアスティンよりも複雑な含蓄を備えている。彼が厳しい批判の標的とするのは、観光それ自体であるよりむしろ、観光に見られる交通手段の発達や大衆化を呪詛し、旅本来の「古きカオスの闇」や「デモーニッシュな力」を理想化しようとする類いの「観光批判」の方だからだ。彼は1950年に書かれたゲルハルト・ネーベルの批評と、その先駆をなす20世紀初頭に書かれたA・I・シャンドの批評をやり玉に挙げて、彼らの言説を「社会的な意味においてだけでなく、ことばの心理的な意味においても、その種の批評は反動的である」と断じ、次のように続けている。

ネーベルが試みるトゥーリズム批判は、実のところ、まさにトゥーリズムそのものである。その批判にひそむイデオロギー、「デモーニッシュなもの」、「原始的なもの」、「冒険」、「処女性」にたいするかれの賛美—これらのすべては、トゥーリズムが宣伝として看板にかかげるものの一部だ。批評家がトゥーリズムにたいして抱く幻滅こそ、かれがトゥーリズムと共有する幻想への回答なのだ。

ここには、ブルジョワの独善的・反動的な教養主義に対抗する、文化左翼の類型的反応として単に切り捨ててはおけない、何ほどかのアクチュアリティが提示されている。観光産業が当の観光批判者と同じ幻想を共有し、むしろそうした批判者をこそ必要としているという構造。それは、70年代初頭の日本において、輸送と情報産業の中枢に位置する国鉄と電通という巨大資本が、「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンを推進した際に、ソフトなエコロジー運動と親和性を持つほどに、地方の素朴な自然や人情を言祝いだ事績と類同的だ。この広告に登場するのは最新のモードをまとった都市文化の享受者としての若者たちであり、その風俗とライフスタイルを地方への旅にそのまま帯同していく点に新味があった。かかるキャンペーンの言説は結果的に、公害問題を瞞着し、その頃より東北の東海岸に点在し始める、核関連施設や産業廃棄物処理施設の存在にもそれとなくヴェールを掛けてみせた。こうした最も虐げられた地方における、中央からの離隔と放置の固定化は、2011年3月の東日本大震災のような、天災と人災の絡まる遅れてきた大事を待ってようやく衆目に曝され、共有可能となった。言うまでもなく、「本土復帰」後、1972年以降の沖縄もまた、そうした固定や瞞着が、他ならぬ「観光」において改めて強化された最も典型的な地域の一つにほかならない。

2

 東松照明が1969年に沖縄にたどり着いた経緯には、愛知県で経験した少年時代の敗戦とそれに続く地元でのアメリカ軍の占領を端緒に、1960年前後から横須賀、三沢、岩国などの「本土」の基地を記録した断続的な過程が前提の一つとしてある。圧倒的な矛盾を抱えた基地のある地域での撮影は、そのまま巨大な負のテーマとの余儀ない対峙や格闘をもたらすが、東松自身が沖縄での取材について、写真集『太陽の鉛筆』(1975年)で、「正直いってぼくは、基地にあって、憎悪と畏敬とある種の懐かしさとが入りまじった複雑な思いにとらわれた。・・・写すという行為は、建前は何であれ、意識するとしないにかかわらず、肯定的に対象を受け入れることを意味している」と述懐している。実際そうした「複雑な思い」は、戦闘機や米兵、黙認耕作地といった基地にまつわる「憎悪」の対象を肯定性の方位へと差し向けて美的な配慮の下に写すという、矛盾した、しかも必然的な美学と政治の相剋・同在という構造を包み、あるいは準備した。東松はさらにほどなく、憎悪と否定の対象ではなく全的な肯定の対象を、とりわけ八重山と宮古の離島の風土と祭りと日常に見出すようになり、その傾向は 1973年3月に始まる宮古島への移住でいっそう強まった。7か月に及ぶ宮古滞在において、東松の写真はいわゆる「観光」から、多重の意味で遠ざかりを示した。

ここから先は

4,227字
この記事のみ ¥ 500

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?