連載:「写真±(プラスマイナス)」(倉石信乃×清水穣)第1回 観光 /<faitiche>の成立 文:清水穣

「写真±(プラスマイナス)」概要/目次

第1回 観光
やさしさについて  文:倉石信乃
<faitiche>の成立  文:清水穣

 京都の同志社大学は1875年に新島襄によって創設され、1887年には図書館の前身となる書籍館(現有終館)が設置された。同志社大学図書館の膨大な蔵書の最古層は、この時代に遡るということである。2012年の春、その最古層から6冊の巨大な写真帖が「発掘」され、1冊に付き6枚貼付された合計36枚の古写真について、あるいは貴重な写真ではないかと、図書館の職員から問い合わせがあった。実見すると、写真帖の表紙には『Picturesque America』とあり、その題名の通り、アメリカ西部の有名な風景の大判写真を収めたものである。当時、アメリカ西部を旅行した日本人が、現地で観光写真を購入し、帰国後に日本語の説明を添えて写真帖に綴じたようである。大判写真はすべて鶏卵紙プリントで、だいたい40cm x 50cmすなわち16 x 20 inchの大きさ、そしてそのなかの数点のイメージには見覚えがあった。予感を覚えつつ見ていくと、写真帖の6巻目の最後に、写真を購入したギャラリーの宣材写真と思われる1点が見つかった。

観光_清水原稿


モントレー周辺の名所の写真がセットで額装されてイーゼルに立てかけられ、そこには「Watkins. 427 Montgy. St. S.F.」とある。すなわち目の前にある36枚の古写真は、なんとあのカールトン・ワトキンス(Carleton Eugene Watkins (1829-1916))の写真かもしれない、と。そこで、2011年にGetty Instituteから刊行されたワトキンスの巨大プリント(通称マンモス写真)のレゾネ (*1) と突き合わせてみたところ、23枚がワトキンスの写真であった。ワトキンスは当時最も有名な写真家であったので、複写プリントが横行していたことに加え、1875年には、ワトキンスの友人にして彼の「ヨセミテ・アート・ギャラリー」の大スポンサー、ウィリアム・ラルストン(William Chapman Ralston, 1826-1875)が破産したために、その煽りを受けて、借金の形としてギャラリーのみならずそれ以前のすべてのガラスネガ(通称「Old Series」)とプリント・販売の権利を没収されてしまい、以降、1875年以前の作品については、それらを入手したライバル写真家、イサイア・ウェスト・テイバー(Isaiah West Taber, 1830-1912)がワトキンスブランドでプリント販売したので、写真帖に貼られたプリントが、ワトキンスの写真だからといって、彼のオリジナルプリントとは言えない。しかし、ワトキンスのギャラリーの宣材写真の写真をわざわざアルバムの末尾に加えたのは、元祖ワトキンスの店(もいわば観光名所)で購入した証拠という思いがあったのかもしれず、残りの12枚もワトキンスの写真かもしれない。保存状態が悪いとはいえ、それなら新発見(?!)ということになる。
 オールド・シリーズを取られてしまったワトキンスは、早くも翌1876年から、昔の撮影地点を再訪し、新しく撮り直してガラスネガを作り直すシリーズ(New Series)を開始する。もし、23枚のワトキンスがすべてこの新シリーズであるならば、「新発見」という仮説にも説得力が出るだろう。というわけで、写真帖に収められたワトキンスの写真を、レゾネ番号と製作年でチェックすると、残念ながら、3枚(ユタ州の名所を撮影したもの)はオールド・シリーズであった。モンゴメリー通り427番地のワトキンスギャラリーでそれらを販売することはありえないので、この3枚に関しては、テイバーの店か、観光客相手に名所写真を販売する店で入手したのであろう。とすれば、ワトキンスの写真が含まれていたのもただの偶然かもしれない。
 ワトキンスがサンフランシスコのモンゴメリー通り427番地にギャラリーを開いたのは1879年のことである。1890年代に入ると、ワトキンスの健康(視力)と経済状態は悪化し、1891年にはスタジオを425番地へ移しているので、もし、この写真帖を作らせた謎の日本人が、同時代にアメリカ西部を旅行したのなら、それは1880年代のこととなる。ワトキンスはその後90年代末にかけて完全に視力を失い、1906年のサンフランシスコ大地震とそれに続いた大火災のせいで、またもすべてのガラスネガとプリント作品を失ってしまう。写真家がその衝撃から立ち直ることはついになく、最晩年の10年はほぼ廃人となって精神病院で暮らし、そこでひっそりと息を引き取った。つまり、謎の日本人が、同時代よりも後に、観光客向け写真として流通していたプリントから36枚をランダムに買い求めたらワトキンス写真が入っていたのだとしても、プリントが鶏卵紙であることからして、大地震後の時代とは考えにくい。やはり1890年代だろう。
 さて、同志社大学の図書館に埋もれていたということは、写真帖の所有者は同志社の関係者だったと推定してよい。そして記録が残っている同志社人で、上の条件を満たすのは、なんと二人だけ、新島襄と徳富蘇峰である。新島襄は、1884年4月〜1885年12月にかけて、二度目の海外旅行を行い、最初の数カ月はイタリアやスイス、次いで1884年の秋からアメリカを旅行して、翌年12月におそらくサンフランシスコから帰朝した。謎の日本人がワトキンスのギャラリーを同時代に訪問したのであれば、それは新島襄である。他方、徳富蘇峰は1896年5月から1897年の6月まで、欧州から北米を漫遊し、サンフランシスコからハワイ経由で帰国している。謎の日本人が、ワトキンスのギャラリーとは関係なく、たんにサンフランシスコで観光客向けの記念写真を買い求めたとすれば、それは徳富蘇峰ということになるだろう。
 とはいえ、アルバムの状態はひどいものである。いったいどこに埋もれていたのか、おそらく正体不明のままにぞんざいな扱いを受けてきたのであろう、本体も写真も劣化が著しい。つまり、もしこれが校祖新島の旅行アルバムであったなら、その記載が全く無いのは解せない。かなり貴重なアルバムとして、当然新島襄の遺品庫に収められたはずだから、正体不明になるべくもない。また徳富蘇峰のものだったとしても、その高名を考えると、やはり扱いが釣り合わない気がする。
 …というわけで、あれから早8年、6冊のアルバムは私の研究室に放置されたままである。

 以上は残念な逸話に過ぎないが、そもそも19世紀末にサンフランシスコを旅行できた日本人がそういるものでもなく、当時は現在よりも遥かに貴重品だったはずの写真帖が、なぜこうまで忘れ去られてしまったのか。それは当然、旅行と写真が、珍しくも貴重でもなくなったからだろう。土産物の観光写真アルバムにすぎない、しかも作者不明だ、と。そのなかに、かつて世界で最も有名なアメリカ人の一人であったカールトン・ワトキンスの鶏卵紙プリントが含まれていたのに全く認知されなかったとしても、宜なるかなである。本国アメリカでさえ、僅かな例外を除いて (*2) 、ワトキンスは忘却されていた。そのルネサンスは1960年代後半から単発的に始まり、ようやく1970年代半ばから本格的になった (*3) 。ワトキンスを打ちのめした1906年の大地震そしてナパの精神病院でひっそりと亡くなった1916年から1970年代まで、この60年ほどの期間、ワトキンスは写真界のディスクールに入れなかった。ストレート・フォトグラフィー〜シュールレアリスム〜ドキュメンタリー〜ストリート・フォトグラフィーが形成する、写真のモダニズムのディスクールに彼の居場所はなかったのである。

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