植木鉢のある風景(2) 文・写真:甲斐義明

写真2-1[1]

 「植木鉢のある風景」と題したグループ展が京都の画廊「ギャラリーモーニング」で2017年2月に開かれていたことに気づいたのは、本連載の1回目 が公開された後だった。 (*1) さらに調べてみると日本土木工業協会の機関誌『建設業界』1984年8月号に「植木鉢のある風景」と題したフォト・エッセイが掲載されていることもわかった。東京23区内で撮影された6枚の写真と短文で構成されている、その匿名筆者によるエッセイは「考えてみると、この東京という都市自体も、巨大な植木鉢のようなものといえるかもしれない」と締めくくられている。 (*2)
 こうした先例が示すのは、軒先や道路上に置かれた植木鉢やプランターに注目しながら、街の景観を眺め、それを写真で記録したからといって、そのこと自体にオリジナリティはないということである。それどころか植木鉢を観察しながら街を歩くことで、私はすでに自分の路上への眼差しを、既存の枠にはめてしまっているのかもしれない。当初は、植物にフォーカスを当てることで、路上観察学会流の路上観察、さらには今和次郎・吉田謙吉の考現学とは違った、生活環境への視点が浮かび上がってくるのではないかと考えた。しかしまもなく、それはあまりに楽観的であるようにも思えてきた。確立された路上観察の実践の中にすでに植物への眼差しが組み込まれており、そこに新たに付け加えるべきことはほとんど残されていないかもしれない。実際、路上観察学会やその主催者のひとりである赤瀬川原平の著作においては、路上の植物に関心が注がれている例も少なくない。
 発端にはそのような批評的野心はなかった。人が路上の植物にカメラを向けるとき、それは表現意欲の発露である以前に、彼や彼女の植物愛に基づく行為であることがほとんどである。植物を愛する人間の気持ちというものはあまりにもありふれたものであるため、わざわざ「植物愛」と呼ぶには及ばないと思われるかもしれない。しかし植物一般に対して無関心な人も少なくないのであり、植物愛好家はそういう人たちから自己を区別することで、自らの植物愛を確認するのである。江戸時代の本草学者がそうしたように、植物愛好家はしばしば集まって自らの関心と知識を共有する。孤独な植物愛好家であっても、他の植物愛好家が書いた本(例えば、いとうせいこう著『ボタニカル・ライフ』)や植物愛好家について書かれた本(例えば、最相葉月著『青いバラ』)を通して、面識のない同好の士と精神的につながることができる。 (*3) その一方で、植物愛好家は非植物愛好家のふるまいに落胆させられたり、軽い怒りを覚えたりする。
 植物愛好家の視点から言えば、植物愛というものは確かに存在するのであり、それは人類愛のような普遍的で漠然としたものではない。しかし植物愛が様々なタイプに分かれるのも事実である。バラ愛好家がいれば、多肉植物だけをコレクションする人がいるし、野生ランの自生地を巡ることをライフワークにしている人もいる。愛知県美術館学芸員の副田一穂が2015年に企画した「芸術植物園」を見た際、中世ヨーロッパの図譜から現代アートまで古今東西の植物表象を幅広くカバーしたその意欲的な展覧会ににじみ出ている企画者の植物愛の深さに驚くと同時に、展示物の多くが植物の葉や茎(植物の緑の部分)を描写したものであることに意外な感じがしたのだった。 (*4) 本人に聞いたところ、花にはさほど興味がないのだという。それに対して私の植物に対する関心はもっぱら花に集中している。


写真2-2[1]

 「植木鉢のある風景」はフィルムカメラで特に目的もなく撮影された写真のスキャン画像の中から、植木鉢が写っているものを選び出すことによって始められ、やがて路上の植木鉢に集中的にカメラが向けられるようになった。私的な作品制作のようなものとして始められた「植木鉢のある風景」は客観的に見れば、一方で路上観察(とその写真表現)を、他方で植物愛好をその土台としている。私は私の写真撮影に対する熱中、そして植物愛の源を知りたいと感じ、さらには、それらを歴史的・文化的な文脈の中に置き、自身の欲求を社会のそれへと結びつけたいと考えた。
 赤瀬川原平らによる路上観察は、都市を一風変わった視点から捉えたが、それは当事者たちによって明確に意識された姿勢であった。路上観察学会の共同設立者である建築史家の藤森照信は『路上観察学入門』(1986年)に収められた「路上観察の旗の下に」と題した文で、「路上観察者の正面の仮想敵国」は「消費帝国」であると宣言している。 (*5) その背景には街が商業主義によって作り変えられてしまうことに対する危機感があった。だが路上観察学会が街作りに直接参画するわけではないから、それが行おうとするのは、人々の都市の見方を変えてしまうことである。すなわち、一見したところ親しみやすく、大衆に開かれているようでありながらも、実際は一部の資本家を利するためのものでしかない都市像を疑ってかかるような視線と感性を、路上観察学は私たちに植え付けようとするのである。しかし前回も述べたように、路上観察はマスメディアにも取り上げられ、それ自体がポピュラーな実践となると、都市を斜めから見るという当初の目的を維持することは難しくなった。ジョルダン・サンドが指摘するように「観察者たち自身にとっての不可避のアイロニーのひとつは、都市の路上のコモディフィケーションに反旗を翻す者としての彼らの成功が、彼らが撮影した無価値とされる「物件」から商品価値を引き出してしまったこと」にあった。 (*6 )


写真2-3[1]

 都市の路上のコモディフィケーション(商品化)に抵抗する実践であったはずの路上観察がコモディティになってしまうという皮肉。そのような事態が生じてしまった原因は、単にそれが社会的に成功したからというよりは、路上観察の方法に内在していたと見ることもできる。すなわち、それが開始された時点ですでに、路上観察学会の実践が方法論上の欠陥を抱えていた可能性も考慮しなければならないだろう。実際それについてはこれまでも指摘されてきた。例えば田中純は「トマソンや路上観察による都市観察は、無用物の無意味さをそれ自体として問題化したというよりも、「見立て」による記号化を通じてそれらを分類・体系化していたのであり、いわば無意味な「物件」を有意味な「記号」へと回収しつづけていた」と論じる。 (*7) 田中によれば、「路上観察学の視線は、バブル経済以降の、新品であるにもかかわらず無用物と化してしまった高層ビル群が立ち並ぶ都市風景にあっては、それがマニフェストとともに展開された当時の都市に対する批評性をもはや失ってしまった」。 (*8) 商業主義の進行によって都市自体が(それが資本主義の論理に乗っ取っているということ以外には)無意味なものとなってゆく過程を、路上観察者たちは直視することができなかった、というのである。

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