植木鉢のある風景(1) 文・写真:甲斐義明

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 ピンクの包装紙に包まれたカーネーションの鉢が店の軒下に置かれている。鉢はいつからここに置かれているのか。鉢はこの後どうなったのか。この文章が書かれている今現在も、どこかに保管されているのだろうか。いや、おそらくそれはどこにも存在していないだろう。母の日の贈り物ではないカーネーションの鉢を見かけることはほとんどない。花が枯れるとそれはひっそりと捨てられ、ごみとして回収され、焼却されるか埋められる。
 もしかすると、鉢はこの写真が撮影された時点ですでに捨てられていたのかもしれない。それにしては花の状態は良く、咲き終わりどころか、まだつぼみがたくさん残っているようにも見える。では、なぜ外に? 自分だけで見ておくのはもったいないから? 鉢に日光を当てて少しでも長持ちさせたいから? ほとんどの写真には、このようなささやかな「謎」が含まれている。それはどうでもよい「謎」である。にもかかわらず「謎」は写真に生気を吹き込み、この写真それ自体が(その他大勢の写真と比較して)有意味なものであるかのように見せる。
 古びたものと新しいものが、写真の中では混在している。こちらを見つめている若い女性が写っているポスターは、この写真が描写しているもののうち、もっとも新しく見えるもののひとつである。だが30年後にこの写真を見たとき、いちばん古臭く感じられるのはポスターだろう。ポスターのデザインからモデルの女性の髪型に至るまで、時代の刻印を帯びたものに見えるだろう。それに対してカーネーションの鉢は古びないだろう。

 だが、もし母の日にカーネーションを贈る習慣がそのときまでに廃れていたとすれば? もしそのことをもはや人々が覚えていなかったとすれば、この写真はさらに謎めいたものに見えてくるだろう。かろうじて記憶されていたならば、この写真は過去の日本人の習慣を捉えた、ささやか視覚資料になるかもしれない。
 この写真が撮影されたのは2018年6月10日である。


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 網入りすりガラスの窓の向こうから、首をかしげた上半身裸の男がこちらを見ている。すりガラスゆえに、彼の表情ははっきりと読み取れないが、笑っているようにも見える。彼はおそらく白人である。
 このような書き方はわざとらしい。それは「上半身裸の男」ではなく、「上半身裸の男の写真」(が印刷された紙袋)であることは、文章の書き手にも読み手にも明白だからである。しかし、そもそも私たちが今見ているのが写真(一次的写真)だとすれば、それを語ることと、写真の中の写真(二次的写真)を語ることとのあいだに、それほど大きな違いがあるだろうか。写真を現実のように見てしまうことがあるとすれば、写真の中の写真もそのように見えたとしても、さほどおかしなことではあるまい。「写真の中の写真」という主題に多くの写真家が魅了され、繰り返し撮影されてきたのは、それが現実と表象の境界を、絵画にはできない形で混乱させるからである。
 「ホリスター」の紙袋は、これから急速に古びてゆくだろう。それはまもなく「懐かしのアイテム」になるだろう。だが、この写真のポイントはそれ以上に、この紙袋がこの場所にこのように置かれていることにある。モデルの男はこちらを向いている。彼はこちらを向かされているのだろうか。隣りに置かれた鳥のぬいぐるみ(何というキャラクターだろう?)の視線も窓の外に向けられていることは、この部屋の借り主(若い女性以外の人間を想像するのは困難である)の意図を感じさせる。それは通行人へと向けられた、部屋の装飾の一部だろうか。男の向かって左側に見える、蜘蛛の足のようなものは何だろうか? これも通行人の視線を意識して置かれているのだろうか。
 それらの細部はやはり自らを「謎」として呈示する。しかしこの写真で問題となるのは「謎」よりも「意図」である。出窓の下には君子蘭(くんしらん)とコニファーの鉢が並べて置かれている。出窓の中に垣間見える世界と、君子蘭という言葉の響きが醸し出す世界は、これ以上ないほど離れている。万年青(おもと)や東洋蘭のような他の古典的園芸植物と同様に、君子蘭はある特定の文脈で鑑賞されることを要求し、周りの空間を支配する。しかしここでは出窓と室外機に囲まれて、君子蘭はほとんど孤立無縁である(よく考えてみれば君子蘭とコニファーの組み合わせも少し奇妙である)。
 意図に関して言えば、この写真それ自体の意図も無視することはできない。この写真の撮影者はこれらの諸要素の組み合わせの奇妙さと、それが生じる際に存在したはずの意図に興味を引かれて、バッグからカメラを取り出し、シャッターを切った。つまりこの写真は、ある意図を別の意図によって取り囲んだものである。意図のわざとらしさは、写真を演劇的なものに変える。美術批評家のマイケル・フリードによれば、演劇性(シアトリカリティ)への嫌悪感は、優れた芸術作品が作られる際の原動力のひとつである。撮影者には「ホリスター」の紙袋と君子蘭の鉢植えが、それぞれあのような場所に置かれていることに、わざとらしいという感じ(=狙っているという感じ)はなかった。だからこそ、彼はシャッターを切ったのである。しかし、そのような理由で撮影された写真それ自体がわざとらしいかどうかについては、この文章は何も語ることはできない。それを判断するのは、撮影者以外の誰かだからである。

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