連載:「写真±(プラスマイナス)」(倉石信乃×清水穣)第4回 伝統 / 安保68年、皇紀2680年 文:清水穣

「写真±(プラスマイナス)」概要/目次

第4回 伝統
「伝統論争」の余白に 文:倉石信乃
安保68年、皇紀2680年 文:清水穣

 「伝統」は、B地方ではないA地方の伝統、B国とは異なるA国の伝統、地球上のA地域とB地域を分ける伝統である。Bと交わらなければ、Aの伝統は存在しない。「伝統」は外圧の産物なのである。人間の移動範囲の拡大に応じて、AB地方はA国の伝統の中へ、AB国はA地域の伝統の中へ吸収される。アクロポリスの丘の麓、入場券売り場の横には「ヨーロッパはここにはじまるEUROPE STARTS HERE!」という看板が生真面目に掲げられているが、パルテノン神殿を大々的に破壊したのはヴェネツィア軍の砲撃であった(1687年)。「西欧文明の起源はギリシア」という「伝統」は、どんなに早くても18世紀以降の産物と言えるだろう。
 次に、伝えられてきた系統として、「伝統」には、時代から時代へと伝えられる何らかの連続性が措定される。それは歴史的記録に裏打ちされる必要があるが、不変の同一性を前提とするわけではなく、後から何らかの同一性を導出できればよい。ひたすら同一性を保つだけの頑なさが現実に時代を超えて続くことは稀だろう。むしろ記録さえ残っていれば、大抵の異同は「不易流行」で済ませ、究極的には「伝統とは伝統破壊の連続だ」という同一性を強弁できる。
 最後に、「伝統」は今も生きていて、これからも生き続けるとされるものである。物自体、作品自体から辿れる系統(例えば正倉院御物に見られる様式や技術の伝播)を「伝統」とは呼ばない。また、遺跡や遺構(ピラミッド、ストーンヘンジ、コロッセオ等々)のように、物理的に存在し続けている連続性も「伝統」とは異なる。すでに死んだ、つまり同一のまま変化しない文化は伝統ではない。
 以上を合わせると、「伝統」とは、国民国家Nation State相互の外圧によって生産される物語であり、日本の伝統とは、「外国」と出会った「日本国」が、その歴史や系譜、真偽さまざまな伝承の中から作り上げ、今でも効力を保っているものだ、と。現在の日本で「伝統〜」が付く代表的な言葉といえば「伝統芸能」と「伝統工芸」だろう。これに対置される「現代〜」「モダン〜」(*1) は、カタカナ語が示すとおり、西洋近代という意味である。つまり「外国」とは「欧米」諸国であり、「伝統」とは、脱亜入欧を目指した日本が「欧米」に対して構成したものだ。それは「欧米」に染まる以前の、純粋に日本固有の美と技 ―Bと出会う以前の純粋なA― を保っているという意味だが、先に述べたように、「伝統」が発生するのはBとの交流が条件であるから順序が逆である。Bを知る以前に「伝統」は存在しない。それは、存在していたはずの「純粋な固有性」を求めて、外圧に応じて後から創作されたものなのである。
 明治時代の国民国家日本が「欧米」に向けて「純粋な固有性」として打ち出した芸術の好例が、いわゆる明治工芸である。しかし宮川香山を代表とする超絶技巧工芸のほとんどは中国にルーツを持つものであり、「伝統」を始めとする西洋の概念を「和訳」した、その言葉のすべてが漢文・漢語に基づいている。脱亜入欧を目指したはずの明治政府は、「西洋」を「東洋=漢」によって受け止めざるを得なかった。このズレは、19世紀末にかけて西洋列強に徐々に露顕していった。1860年の圓明園事件での略奪に始まり、以降、故宮から次々と流出した清朝の宝物が英仏市場に流通し始めると、明治時代の官製の「伝統工芸」が、じつは最盛期の清朝工芸の現代版反復であることは、もはや否定できなかった。たとえ同時代の清朝工芸がその高みにもはや達していなかったとしても、それは言わば「中国を超えた中国」にすぎない。だから1920年代にモダニズムの波が押し寄せたとき、日本の伝統工芸は改めてその「オリジナリティ」を問われることとなる。そこで作り出された理論が「民藝」であり、見いだされた起源が、安土桃山時代から江戸初期にかけての「桃山陶」であった。現在の日本の「伝統陶芸」は相変わらずこの2つの徴の下にある。われわれがすぐに思いつくような伝統美学(侘び寂び、不完全の美、等々)は、この時代に継ぎ接ぎされた物語である。完璧な中国陶磁に対抗する美学としての「不完全の美」という言葉自体、岡倉覚三の『The Book of Tea』の邦訳(村岡博訳、1929年)に登場する「a worship of the Imperfect」に由来するだろう。「真の美はただ「不完全」を心の中に完成する人によってのみ見いだされる。」(同第4章)

 話を写真に戻そう。ダゲレオタイプについての言及が日本史上に登場するのは1843年、これはダゲールがパリのアカデミーで自分の発明を発表してからたった4年後のことである。最古の写真は1857年、島津斉彬の肖像写真とされている。19世紀の時間感覚を考慮にいれれば、写真に関しては(日本側の一方的な受容に基づくとはいえ)最初から同時代性を前提としてもよいだろう。アメリカ西部の開拓写真とほぼ同時代に北海道開拓写真が撮られ、世紀末をはさんで日本でもピクトリアリズムが主流となり、やがて戦間期にはモダニズムと新即物主義に応じて、フォトグラムやコラージュ、そして新興写真が撮られ、大戦後にウィリアム・クラインがブレボケを(『New York』1956年)導入し、エド・ファン・デァ・エルスケンが黒々としたコントラストの強いプリントを発表すれば(『Sweet Life』1966年)そういう写真が流行る、と。1974年、ニューヨーク近代美術館で、山岸章二とジョン・シャーカフスキーによる初めての日本写真展「New Japanese Photography」が開催されたとき、アメリカ側の批評はほとんどが否定的なものであった (*2) 。当時の名の通った「知識人」の、救い難く無自覚なレイシズムとコロニアリズムで曇った眼差しを差し引いても、展示された写真群は、まさにその「同時代性」ゆえに「New」ではなかったわけである。また、歴史が浅く、しかも日本でも同時代的に発展してきた写真というジャンルにおいて、何が「Japanese」であるかは曖昧であった。シャーカフスキーは、彼が直感していたはずの「Japanese」な固有性を、コロニアルな思考フレームを超えて論じられるほど時代を先駆けてはいなかったし、山岸章二は平等な「同時代性」に拘って国名のレッテルを拒絶した。だがその抵抗は、レイシズムとコロニアリズムの時代には無力であった (*3)
 写真において「伝統」は、例えばHistory of Japanese Photographyと言われるときの、その「日本Japanese」とは何を意味するかという問題として現れる (*4) 。カレン・フレイザー Karen M. Fraserの『Photography and Japan』(2011)は、タイトルからも読み取れるように、ポストコロニアルな研究のレベルを踏まえた新しい日本写真史の教科書として、冒頭でこの問題にふれている。日本写真の「日本」は、そこに何らかの固有性を理解するのであれば、国籍のことではないし(とはいえ、これが世界でもっとも一般的な用法だが)撮影場所のことでもない。「日本写真」とは日本国籍の作家が日本国内で撮影した写真である、という定義は、問いに答えていない。だからといって、上述の通り写真は最初から同時代的でグローバルであるから、本質主義的なアプローチは不可能である。江戸末期の写真に浮世絵の構図からの連続性を見るという議論もあるが、浮世絵はヨーロッパの画家や写真家にも影響を与えており、彼の地への連続性もある。また、本質主義それ自体のコロニアルな性質からして、それが見出す「日本的本質」は、自動的にステレオタイプ ―"Kû" (Void)、"Ma" (Espacement)等々― を反復するだろう。
 そこでフレイザーは、「日本写真」とは言わずに、「日本」と「写真」が歴史的にどのように関わってきたかと問いを立て、3つの概念を提示する。「アイデンティティ」「戦争」「都市」という3本の導きの糸が、日本と写真の関係を最もよく解き明かしてくれる、と。それはその通りだが、同じことは、国民国家としての「アイデンティティ」を問い(あるいはその過程で「ヨーロッパと自国」というコロニアルな思考に冒され)、20世紀という「戦争」の時代を通過し、「都市」文化を発展させた国なら、どこにでも当てはまるだろう。さらに「写真」が際立って関係しているという条件を加えても、該当する国は相当数見つかるはずだ(写真と、アメリカ、トルコ、メキシコ…)。日本だけに該当する「日本」写真を定義するには、そこに見いだされる特徴が、日本固有の歴史的文脈に条件付けられていることが必要である。

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