連載:「写真±(プラスマイナス)」(倉石信乃×清水穣)第4回 伝統 / 「伝統論争」の余白に 文:倉石信乃

「写真±(プラスマイナス)」概要/目次

第4回 伝統
「伝統論争」の余白に 文:倉石信乃
安保68年、皇紀2680年 文:清水穣

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 歴史への避けがたい渇望がトリビアの詮索や訛伝の浸透に落ち着くのは、何もポスト・トゥルースのはびこる今に始まった事象ではなく、この国の平時の倣いであった。だから、いかなる細さにおいてであれ歴史との紐帯を仮初めに伝統と呼ぶのであれば、それを保守するにも革新するにも、暴力的な切断といえる出来事が生傷として残っているうちが勝負なのだ。1950年代とはそのような時代ではなかったか。克服しがたい未知の疫病に苛まれているいま現在はといえば、2011年の大震災からの隔たりもさほどではなく、だいいちあのいかがわしい「改元」から間もないにもかかわらず、我々の視覚環境に限ってみても伝統をめぐる批判的な審問それ自体が旧套的であるとして看過され、または浮薄だが嵩にかかってくる新手の「和風」に覆われる、そうした傾きから逃れがたい。
 かくして伝統を召喚する引力を再認識するためには、時間の逆行が不可欠なのであり、たとえば「伝統論争」の舞台となった1955-56年の『新建築』誌をひもとくことは極めて示唆深いことになる (*1)。この論争を編集者・批評家として仕掛けた後1960年代に入るとメタボリズムを牽引した川添登には、伊勢の神宮、桂離宮のほか、民家や当時「ジャポニカ」と称された現代の「和風」建築までを俎上に挙げながら、サンフランシスコ講和条約の発効直後、または朝鮮戦争の休戦直後という時制において、建築における日本の「伝統」を改めて「再起動」する企図があった。写真はその言説空間を支える役割を果たした。すなわち古びた建築雑誌のバックナンバーに収まっている石元泰博の「桂」や、渡辺義雄の「伊勢」の写真は、誌面を支配する伝統を問う言説的亢進のさなかに、構成主義的ともフォーマリズム的ともいえる質を、鮮明に刻印している。二つの作品に限らず、そこには古代から近世までの建築学的語彙を、モダニズムの鋳型に流し込む手際が写真家には求められた。
 「伝統論争」への荷担に際し、写真という分野にも相応の事情はあった。石元が桂離宮を取材したのは1953年のことだ。サンフランシスコに生まれ日本の高知で幼児から高校までを過ごした後渡米し、戦時を日系人収容所で暮らしてからシカゴのイリノイ工科大学で写真を学んだこの写真家が、久しぶりに来日したその年に始まる。石元は実作と教育(主に桑沢デザイン研究所・東京造形大学・東京綜合写真専門学校)を通じ、アメリカ型モダニズム写真のエヴァンジェリストとして、やがて日本に留まることになろう。最近磯崎新が述懐したように、字義通りにインターナショナルな個体であるイサム・ノグチと石元によって、1950年代のこの時期に、「近代の眼で視た日本と言ったらよいのでしょうか、彫刻と写真というふたつの側面から、日本の形が「抽出」されたと考えていい」のであり (*2)、そのような「形」を実作を通じてこの国に提示・教育したのである。
 他方、日本大学芸術学部写真学科で長く教鞭を執った渡辺は、まさに同じ53年の式年遷宮を取材したのを皮切りに、伊勢で生涯で三度の遷宮を取材する。戦後の渡辺は、異国での紀行写真を除けば、古社寺を中心とする建築写真の分野に活動の照準を定めていく。この選択は、伊奈信男らの証言などから、戦時にプロパガンダに関与したことの反省が作用していると見られてきた (*3)。しかし「伊勢」の取材は、戦時以来の文化宣伝を継承した国際文化振興会からの委託によるもので、渡辺は同会の企画による堀口捨己の概説を付した国際出版『Architectural Beauty in Japan』(1956年)に当該の伊勢の写真を含め、参加した写真家の中で最多の写真を提出している。さらに彼は、「伊勢」に先立って1949年写真集『皇居』を制作した後、『東宮御所』(68年)『宮殿』(69年)『迎賓館』(75年)と、続けて国家儀礼の中枢に位置する建築の写真集を刊行した。彼の事績の総体を踏まえれば、報道から建築への主題論的な転換はあるにせよ、「国策」の軸線に沿って自作を配置する、その姿勢は一貫して揺らぐことはなかった。
 渡辺の「伊勢」と石元の「桂」は両者にとって戦後における最初の達成であり、その後のキャリアを規定する代表作であり続けた。1960年石元は丹下健三、ヴァルター・グロピウスとの共著『桂 日本建築における伝統と創造』を、1962年渡辺は丹下、川添との共著『伊勢 日本建築の原形』をそれぞれ出版する。これら二書は50年代半ばの『新建築』を舞台にした「伝統論争」を経由してたどり着いた成果物に数えられるだろう。丹下は石元とのこの共著の序において、「一人の建築家と一人の写真家の心象のなかに生きている桂の記録である」と述べ、「あるものは抽象絵画のような、また抽象彫刻のような表現をともなっているだろうが、どの一齣をとってみても、そこには生活体験からくる知恵と、また生活の底にある情感が、見事な一つの表現になって統合されているのである」とまとめている (*4)。石元が実現した桂の庭園の敷石や、建築部材のクロースアップによる幾何学的構成を、「生活」と関わる知恵や情感と強引に結びつける論理の飛躍には、「伝統論争」時における川添や今和次郎から被った自作およびその建築思考への批判を取り込んで、吸収してしまおうとする手つきが認められる。川添や今による丹下への批判的観点の一つは、他ならぬ民衆の「生活体験」を繰り込めていない、エリート主義的な身振りに向けられたものであった (*5)
 ちなみに渡辺も桂離宮を撮り石元も伊勢を撮っており、そんな作例の交叉から両者の「作風」を比較してみることも可能だろう。その技倆を大いに活用することで実現された『新建築』の誌面構成上の巧みさや、編集上の戦略の奏功ぶりを、褒めそやすことはたやすいし、彼らの1950年代の仕事は確かに、建築史上に残る言説を支える成分となった。だが、彼らほど「サンフランシスコ講和体制下の写真家」であることを体現している者もそうはいない。伝統と現代との接点を探るという名目でなされる歴史化には、政治的なニュートラリティを偽装しつつなされる、危うい審美性への還元の身振りへと、妥協的に陥る脈絡がつねに開けている。ベンヤミンを引くまでもなく、そのような身振りとは字義通りの政治の美学化なのであって、石元や渡辺の写真における「美的」な達成への無防備な賛意は、かかる美学化への追認と歴史的時制の閑却を意味するだろう。

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