見出し画像

古いもののなかにこそ、未来がある

 古いものに惹かれる。古ければいい、という訳ではないけれど、古いものや場所の方が落ち着く。もっと言うと、僕は「進歩主義」というものを信じていない、ということもある。「進歩主義」や未来信仰的な思想の先に、本当の意味での「未来」はないのではないかと思う。むしろ過去のなかにこそ、本質的な意味での「新しさ」や「未来」はあるのではないか。

 僕はフォーキーな音楽がとりわけ好きで、ボブ・ディランや所謂「ブリティッシュ・フォーク」と呼ばれる、イギリスの6,70年代のトラッド系のフォーク・シンガーの作品を昔から愛聴している。ロックが隆盛を極め、サイケデリックなど、アート志向な音楽が持て囃されていた時代にあって、長く歌い継がれてきた伝承歌のなかに、人間の普遍的な真実を見出したミュージシャンたちがいたのだ。古いけれども、それこそがいちばん強くて新しい音楽なのだ、と。

 ある時代のなかで消費され、消えていくような音楽ではなく、普遍的な価値を持った音楽を希求すること。デビューから現在に至るまで、それを追い求め続け、前人未踏の境地に入ろうとしているのが先述のボブ・ディランだろう。ここで、2004年に出版されたディランの自伝から、リッキー・ネルソンについての記述を引用してみよう。

「わたしは以前からリッキーのファンで当時も好きだったが、その種の音楽はすでに死にかけていた。意味のないものになっていた。未来はなかった。その種の音楽はまちがいだった。まちがっていないのは、山に根を下ろしイースト・カイロの街角に立つビリー・ライオンズの幽霊、そしてブラック・ベティ・バン・バ・ランといった歌詞を持つ音楽だった。それは絶対にまちがっていなかった。それこそがたいせつなものだった。これまで当たり前と思ってきたことに疑問を抱かせるもの、傷ついた心をいっぱいに書きこめるもの、精神の力を持つものだった」(『ボブ・ディラン自伝』ボブ・ディラン著、ソフトバンク パブリッシング刊)

 僕の言いたいことは、このディランの言葉に集約されている。この部分を読んだとき、まさに我が意を得たりという気がした。エルヴィス・プレスリーやリトル・リチャードに憧れ、ロックンローラーを夢見ていたディランがなぜフォークに向かったのか、その答えの核心がここにある。

「生き方といふものはつねに歴史と習慣のうちにしかない」と福田恆存は「伝統にたいする心構」という文章のなかで書いている。僕は根源的なものにしか興味がない。僕がいつも希求しているのは、絶対的な真実だ。「絶対的な真実などない」と言う人もいるだろう。けれど僕はよく思うのだが、もし絶対的な真実がなかったならば、人は詩を書くことも、歌を歌うことも、誰かを愛することもなかっただろうし、宇宙もとっくに崩壊していたのではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?