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激動の90年代アニメを振り返る |アニメ評論家・藤津亮太 第2回

前回は、日本におけるアニメ文化の第一次ブームについてお聞きしました。今回は、1990年代のアニメブームのお話からうかがっていきます。

今回もアニメ評論家の藤津亮太さんにお話をお聞きしました。

藤津亮太(ふじつ・りょうた)
アニメ評論家。’68年生まれ。新聞記者、週刊誌編集を経て、2000年よりフリー。雑誌・WEB・BDブックレットなど各種媒体で執筆中。著書に『チャンネルはいつもアニメ』(NTT出版)、『声優語~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~』(一迅社)、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』(河出書房新社)などがある。朝日カルチャーセンターでは毎月第三土曜に講座「アニメを読む」を実施している。東京工芸大学非常勤講師。

1990年代のジブリ作品を支えた2つの柱

――さて、エヴァ以降、いったい日本のアニメはどうなったのでしょうか? 今回はそこから教えてください。

藤津:
「それは、ざっくり捉えると平成以降のアニメの動向を考えるということになりますね。

平成が始まった30年前(1989年)のアニメは、大きく3つに分けることができると思います。

ひとつは、前回お話したテレビ放映のキッズ・ファミリーアニメ、もうひとつは、現在の深夜アニメに近いマニアックな作品を生み出していたOVA、そして映画です。

劇場用アニメ映画は、昭和末期の1988年公開の『アキラ』(大友克洋監督、東宝)などもありましたが、やはり画期的だったのは、スタジオジブリの『魔女の宅急便』(1989年、宮崎駿監督、東映)でしょう。

ジブリは1986年に公開された『天空の城ラピュタ』(宮崎駿監督、東映)が初めての劇場作品ですが、『魔女の宅急便』のスマッシュヒットをきっかけに、1990年代を通じて邦画ナンバーワンを取り続けるようになります」

――なぜ、ジブリ作品はあれほど支持されたのですか?

藤津:
「一言では答えづらいですね。ひとつ言えるのは、『楽しいけど、深い』点だと思います。

特に、宮崎駿監督が深いテーマを追求すると同時に、サービスも怠らなかった。そのバランスがヒットした理由ではないでしょうか。

もうひとつは、プロデューサーの鈴木敏夫さんが『魔女の宅急便』を公開する際に、ヒットさせるための戦略として、日本テレビとタッグを組むなど、さまざまな仕掛けを行ったことが挙げられると思います」

アニメ作品への取り組み方を変えた「製作委員会方式」


――平成元年頃のアニメの状況がわかってきました。

藤津:
「しかし映画が盛り上がる一方で、テレビアニメを取り巻く状況がじわじわと変化していきます。

90年代はヒット作があるのであまり意識されないのですが、テレビアニメの放映枠を綿密に追いかけていくと、ゴールデンタイム(19時台)から徐々に撤退し、夕方の再放送も減少していくことがわかります。

視聴率が振るわなくなってきたのです」

――大ヒットした『新世紀エヴァンゲリオン』は?

藤津:
「放映時間は水曜の18時30分でした。当時のテレビ東京の夕方の放映枠は、今振り返って見ると『アニメの実験場』だったといえます。テレビアニメが徐々に縮小傾向にある。その一方で、OVAの人気が高い。

そこでビデオメーカー(レコード会社の映像制作部門など)が『OVAのビジネスをテレビでもできないか』と考えたわけです。その実験の場が、テレビ東京水曜18時30分でした。

この方式は1993年の『無責任艦長タイラー』(テレビ東京系)、1994年の『BLUE SEED』(同)から始まりました。

製作委員会という名前は、1980年代のアニメから見られますが、現在まで続く『製作委員会方式』の先駆けはこの時期といえます」

――「製作委員会」はよく耳にします。どういう組織で、何が画期的だったのでしょう?

藤津:
「それまでは、メインスポンサーの意向が作品制作に強く働いていました。アニメ作品は、それ自体が売れることが目的ではなく、スポンサーの商品を売る宣伝手段だったのです。

これに対し製作委員会方式は、複数の会社が出資をし、そのアニメ作品を使ってビジネスを展開します。

そう考えると、アニメのテレビ放映は作品の宣伝で、ビデオという商品を売ることが目的になったのです。

つまり、製作委員会方式によって、アニメは宣伝媒体から商品になったというわけです」

――そうすると、クリエイターたちの作品に対する力の注ぎ方も違ってきたというわけですね?

藤津:
「それはいちがいには言えませんね。それまでも一生懸命作っていたとは思います。ただ企画についての距離感は変わったかもしれません。

クリエイターたちのモチベーションは、さまざまな要素が影響します。旧来の作り方だったから低い、製作委員会方式だから高いというわけでもありません」

――他に1990年代のアニメを特徴づける出来事は?

藤津:
「テレビ東京だけでなく、WOWOWの『ノンスクランブル放送』も同じように『アニメの実験場』として機能していました。

これは1998年にスタートした枠で、たとえばアニメコンプレックスという枠でさまざまな15分アニメを放送したり、『THE ビッグオー』『カウボーイビバップ』(1998年)などで人気を博しました。

これもテレビ東京の試みと同じく、新しいアニメビジネスを模索する中で生まれたものです。

つまり、『ファースト・ウィンドウはテレビだが、ビジネスモデルはOVA』というパターンの実践というわけです。

そして、1998年に『深夜アニメ枠』が本格化します」

――深夜アニメは案外、長い歴史を持つんですね。

藤津:
「もう20年以上になります。現在のビジネスモデルによる『深夜アニメ枠』の先駆は1996年にテレビ東京系で放映された『エルフを狩るモノたち』です。

その後、1997年に劇場映画『新世紀エヴァンゲリオン シト新生』公開に合わせて、テレビ放映版の再放送が深夜枠で行われました。

これが異例の高視聴率を記録したことで、本格的に『深夜アニメ枠』が誕生したといういきさつです。

その後に他局も追随し、今ではアニメ作品の半数(時間ベース)が『深夜アニメ枠』から生まれています」

一般人の視界からアニメが消えてしまった理由

――でもこの頃から、一般の人たちがアニメ作品と縁遠くなったような気がします。

藤津:
「逆説的ですが、それは、深夜アニメの隆盛に合わせて、製作本数が格段に増えたからだと思います。

先ほどから述べているように、深夜アニメはビデオパッケージを販売するためにテレビを使っていました。

そうなると、製作本数が多いほうがリスクヘッジになるんです。

1つの作品に通常の5倍の製作費をかけたからといってOVAが5倍売れるわけではない。逆にリスクは5倍になる。その逆を狙って、本数を増やしたわけです。

それは結果として、ニッチな客層に深く刺さる企画が増えることにつながったわけです」

――そうなると心配なのが質の問題です。

藤津:
「心配されたほど質は低下しませんでした。2000年代前半はビデオパッケージの販売が好調だったので、業界内もうまく回っていたのでしょう。

『LAST EXILE』(2003年、テレビ東京系)や『魔法少女リリカルなのは』(2004年、独立UHF系各局)がマニアのあいだで話題となり、のちにパチンコ化(2007年)で再ブレイクした『創聖のアクエリオン』(2005年、テレビ東京系)も深夜枠から登場しました。

ところが深夜枠がもてはやされた一方で、意外にも夕方枠からも大ヒット作が誕生します。それが『機動戦士ガンダムSEED』(2002年、TBS系)です」

――首都圏ではたしか土曜の夕方に放映されていました。なぜその枠でヒットしたのでしょう?

藤津:
「『ガンダムSEED』は、ガンダムシリーズに新たに小中学生のファンを取り込もうという狙いで制作されました。

突然夕方枠ができたわけでなく、それまで平成ウルトラマンシリーズを放映していた時間帯をアニメにしたのです。

当時は録画機器が発達していなかったので、小中学生を取り込むにはこの時間帯でのアプローチがまだ有効だったからでしょう。

また、華麗な少年キャラを登場させることでマニアックな女子も惹きつけ、派手な戦闘シーンや凝ったモビルスーツの設定は、シリーズのコアなファンである成年男子にも響きました。

そうした事象が総合的に噛み合ったのがヒットの理由だと思います。


ガンダムに限らず、シリーズ作品は放っておくとファン層がどんどん高い年齢層へ移ってしまいます。

その問題について、『ガンダム』は放映時間の工夫で解決し、低年齢層にも広げたということです。

さらに本作品は、アニメで初めて、『見逃し配信』を始めました」

――いろいろな点で革新的な作品だったわけですね。

藤津:
「平成以降のガンダムシリーズでは最高視聴率を記録しましたし、DVDも各巻が10万本以上、続編の『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』とあわせてDVDを200万本以上売り上げた大ヒット作となりました」

アニメの近代と現代とを区切る画期的作品の登場


――ところで、美少女が登場する、いわゆる「萌え系」のアニメというのは、このあたりなんでしょうか?

藤津:
「何を『萌え系』と定義するのかがむずかしいので、はっきりしません。

たとえば80年代の『うる星やつら』も、かわいい女性キャラは多いですから、『萌え系』に含めることができなくもない。

『萌え』という単語が人口に膾炙する以前、1990年代にOVAで大ヒットした『天地無用』シリーズなども『萌え系』と言えば言えるからです。

ただし、現在、多くのみなさんが何となくイメージしている、いわゆる『萌え系』は、漫画雑誌『まんがタイムきらら』(2002年創刊、芳文社)から登場した『きらら系』に象徴される『萌え系四コマ』のことを中心に指しているのだと思います。


代表的なのが『けいおん!』(2009年、TBS系)ですね。

この『萌え系』の動向も重要なトピックですが、これらと前後して、アニメ業界では2006年にさらに大きな出来事が起こります」

――何が起きたのでしょう?

藤津:
「YouTubeやニコニコ動画といった動画投稿サイトの流行です。

当時、日本国内ではアニメDVDが最盛期を迎えていました。また国外、とくに北米でも同じように売れていました。

ところが動画投稿サイト上に違法コピーが次々とアップされ、北米のDVD市場が焼け野原になっていたんです。

またこれをきっかけに消費者の『脱ビデオパッケージ』の動きも加速して、全盛時は10万本で大ヒットだったものが、2006年には4万本も行けば大ヒットと呼ばれる状態になってしまったんです」

――アニメより先に音楽産業が同じ状況に陥りました。

藤津:
「音楽産業は解決策として、配信やライブに軸足を移し、息を吹き返しました。アニメ産業は現在、その背中に追いつこうとしている段階です。

このように、2000年代前半に過熱していたアニメ市場は、2006年頃を境にいったん落ち着いてしまいます。その後、2010年頃までは売上も右肩下がりになりました。

こうした状況の中で大ブレイクしたのが、『涼宮ハルヒの憂鬱』(2006年、独立UHF系各局)です。

私見ですが、アニメの歴史に名前を付けるとすると、この作品を境に、アニメは『現代』になったと思います。まさに画期的な作品です。

つまり、ここまで私がお話ししたことは、すべて『歴史上の出来事』だったというわけです。

現在、みなさんが何となく抱いている『アニメ』のイメージが出来上がったのが2006年ごろで、それを象徴するのがこの作品だからです」

――どういう点が画期的だったのでしょう?

藤津:
「実は当初、本作品はヒットしないと思われていました。放映がUHF局であること、1クールであること、そして原作がライトノベルであること、がその理由です」

――なぜこの3つが、当時ヒットしない理由にあげられていたのでしょう?

藤津:
「まずUHF局は視聴可能地域が狭いからです。次に1クール作品であることも同様で、放送期間が短いと必然的に作品に接触する人が少なくなるので、人気に火がつきにくいと考えられたわけです。

ライトノベルの原作については、1990年代からあり、『スレイヤーズ』(1990年、富士見書房/1995年、テレビ東京系)などがありました。しかし2000年代に入ってからは減っていたのです。

『涼宮ハルヒの憂鬱』では、こうしたマイナス要因が、動画投稿サイトを中心とするネットの影響で、一気にひっくり返ってしまったというわけです。

限られた数の視聴者であったにもかかわらず、海賊版がネットにアップされたり、エンディングのダンスを実際に踊った『踊ってみた』動画がニコニコ動画に投稿されたりすることで、話題が広がっていったのです。

まだネットの実力が信用されていなかった頃です。SNSも普及していませんでした。だから、この結果には誰もが驚きました。

『涼宮ハルヒの憂鬱』の成功で、ネットも含めて宣伝をしっかり行えば、1クールでもUHF局でも十分に戦えることがわかったというわけです。

また、ライトノベル原作のちょっとひねりの効いた『学園もの』がいろいろアニメ化されるようになりました。

つまり、本作品以降は、UHF局、1クール、ライトノベル原作が、勝利の方程式に加わったわけです」

――ネットの利用については、どのあたりが革新的だったのでしょうか?

藤津:
「公式ホームページが、劇中に登場する『SOS団』のホームページを主人公たちが作っているという形式になっていて、隠しページに新情報が仕込んであったり仕掛けがたくさん存在していました。それが多くのファンを惹きつけたのです。

また、こうした試みがネットだけにとどまらず、たとえば、本編を時系列に沿って放映するのでなく、話数をシャッフルしてしまうなど、視聴者が一人で夢中になるだけでなく、思わず誰かに話したくなるようなやり方を随所にちりばめた点です」

――最近では『ポプテピピック』(2018年、TOKYO MX等)がそんな感じでした。正直、わけがわかりませんでした。

藤津:
「わかる人にはわかる、という目配せが、1980年代のフジテレビの深夜枠(『JOCX-TV2』と称し、実験的なドラマ、バラエティ番組を放映した)にあった実験精神のようなものを感じさせます。

『涼宮ハルヒの憂鬱』にも、同じ感覚があったと思います。『このノリを楽しめるのはわかってるやつだよ』的な。

同作は2009年に新作を含めて、時系列に従って放送されていますが、私としては、やはりバラバラに放送された2006年版のほうが刺激的だったと思います」

平成に入り、産業としての、ビジネスとしてのアニメが大きく変化し、新しいフェーズへと突入しました。

しかしインターネットの普及により、DVDのセールスが激減し、アニメ業界は苦境に立たされることとなります。そんな中でも試行錯誤を繰り返し、次のステージへと進化します。

次回は今のアニメ業界とこれからについてお聞きしたいと思います。
(つづく)

アニメブームを振り返る |アニメ評論家・藤津亮太 第1回
激動の90年代アニメを振り返る |アニメ評論家・藤津亮太 第2回
これからのアニメ業界はどうなるか? |アニメ評論家・藤津亮太 第3回

取材・文/鈴木俊之、写真/荻原美津雄、取材・編集/設楽幸生(FOUND編集部)

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