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キム・ギドク『弓』と川端康成『眠れる美女』

◆キム・ギドク『弓』

 キム・ギドク監督『弓』は、海に漂う船の上で暮らす老人と少女の純愛ドラマ。だがキム・ギドク作品なので、一癖も二癖もある作品に仕上がっている。

 まず、老人と少女には台詞がない。なぜ老人と少女は一緒に海の上で暮らしているのか。どんな過去があり、どんな思いで過ごしているのか。一部の情報を除いてほとんど語られず、明らかにされないまま幕を閉じる。

 少女の恋愛感情の揺らぎは映像を通してある程度分かる。しかし、老人の感情は弓矢と、弓矢のような強烈な視線によって伝えられる嫉妬の感情を除いて、あまり伝えられない。

  キム・ギドク監督は読売新聞のインタビューで、老人と少女は「人生の“始まり”と“終わり”の象徴」と説明し、「最初は、“始まり”と“終わり”があったのが、一つの円を描き始めると、どこが“始まり”で、どこが“終わり”か分からなくなる。老人が、終わりを迎え、消えてしまうことを恐れて少女の若さにあこがれるのも、円を描くのと似ているでしょう」と語っている。

 そして弓についてだが、弓は映画の中で、武器として、そして楽器として登場する。キム・ギドクは「人間の二面性を表している。弓は一つの道具として、良い機能も悪い機能も果たす。善悪両面のある人間も同様です」と話している。

 つまり、この映画は弓の二面性と同様、<善/悪>という人間の二面性、そして<若さ/老い>という人間の二面性を内包している。

 この映画は、説明の少なさから、いろんな解釈が可能であり、受け手は映画の中から自由に人間の善や悪や若さや老いを読み取ることができるだろう。


◆川端康成『眠れる美女』

 「老人と少女」をテーマにした作品といえば、川端康成の『眠れる美女』だ。

 三島由紀夫をして「熟れすぎた果実の腐臭に似た芳香を放つデカダンス文学の逸品」と言わしめた『眠れる美女』であるが、『弓』との共通点はというと、少女の口数の少なさだ。『眠れる美女』に登場する海辺の宿の少女たちも無口だ。睡眠薬を飲まされて眠っているからだ。

 『弓』と大きく異なる点もある。老人の過去についての言及だ。『弓』では、老人が十年前に少女を連れてきたこと以外に過去について語られないが、『眠れる美女』では、少女たちの体を媒体として、江口老人のさまざまな過去が語られる。少女たちの体が老人のさまざまな思考や妄想の起爆装置となっている。これに対し『弓』の少女は、老人の愛の対象だが、老人の思考や妄想はなんら語られない。この点において『弓』における老人の愛は即物的である。

 もう一つ、大きな違いはというと、『弓』の場合、少女は一人しか登場しないのに対し、『眠れる美女』は少女が複数登場することだ(正確には六人)。

 『弓』における老人の愛の苦悩の理由は、その少女以外に身代わりが誰一人いないことであるのに対し、『眠れる美女』の老人の苦悩の理由は、少女たちにはいくらでも身代わりがいる、ということだ。

 一人じゃむなしい。たくさんいてもむなしい…。愛の崖っぷちに立った老人を通して、私たちは生きることの困難さをまた一つ教わるのである。

(※2007年5月1日に書いた文章をベースにしています)

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