グランシュヴァリエ。そしてもう1人/高知遠征19日目


グランシュヴァリエ。

御前からその名前を聞いた時、私は彼女のことを思い出せなかった。

「あら、貴女なら知っているかと思ったけど。中央でデビュー初戦を勝利して、その後6着2着1着と、成績を重ねたウマ娘よ」

スマホの向こう側でそう説明する御前の言葉を聞いても、私の記憶はまだあやふやだった。思うに、彼女のデビューは私がウララと出会う前。私がまだ前任の生徒と契約していた頃だろう。しかしそのクラスの成績であれば、有望株として当時の私の記憶に留まっていてもおかしくはない筈なのだが──

「あの、髪の色は?」
「青鹿毛」

そこまで聞いて、私は『ああ』と声を上げた。青鹿毛でその成績の生徒なら覚えている。私から声をかけたが、互いに名前を名乗る間さえ無く袖にされた生徒だった。思い出せなくて当然ではあるが、そんな名前だったのか。

「その娘がね、今こっちにきているのよ。中央トレセンには休学届を出していて、半年前からウチの生徒としてね。2勝目から数えて大分経っ出るんだけど、少し伸び悩んでるみたいなの。そこで頼みがあるんだけど──」
「何でしょう?」
「ウララに、併せ馬を引き受けてもらいたいのよ」
「わかりました。明日にでもまた、伺います」
「助かるわ。お願いね」

電話は切れた。電話はスマホからでも皇帝塾のクラブハウスからでもなく、おそらく自宅の固定電話からだったのだろう。背後のテレビから聞こえてくる聞き覚えのあるCMソングに混ざって、「コーヒー、ここに置くね」という、優しげな男性の声が聞こえてきて、私はそれを少しだけ羨ましいと思った。

2戦目の後のオフも明け、明日からまたトレーニング開始というその日の昼頃、御前から私が受けた電話は願ってもない申し出だった。これでまた、新しいことにチャレンジ出来る。ウララの成長には大きくプラスになるだろう。

「どうした?もう電車が来るぞ」

テイオーにそう促され、私は高知駅のホームを振り返る。夏休みもまだまだ中盤、行楽に向かう多くの人々に混ざって、私たちは一足先に東京へと戻るルドルフの見送りに来ていた。ルドルフの夏休みが私たちより一足先に終わったのだ。

「ウララ、怪我に気をつけて元気でやるんだぞ。帰ったら、一緒にシューズをさがそう」
ウララの右肩に手を置きながらルドルフがそう言うと、ウララは笑顔を返し、元気よく返事をした。
「はい!ルドルフさんも途中で迷子にならないでね!」
それを聞いたルドルフは愉快そうに笑うと、ウララから視線を外し、今度はテイオーを見た。
「心残りと言えば、土佐のあか牛ですき焼きをやってみたかったが......まあ、次回のお楽しみということにしておこう」
「東京でも食えるさ。帰ったら楽しみにしてるんだな。店は探しておく」
「驚いたな、君の口からそんな台詞が出るとは。東京で食べるあか牛は、きっと高いぞ?」
目を丸くするルドルフに対し、テイオーは、ニヤリと笑い、言った。
「ウララの3戦目の成績を楽しみにしておくんだな。その時になって財布を出すのは、きっとアンタの方だぜ?」
「そういうことか......だったら、余計に楽しみだ」
すると、笑う2人の姿を見ていたウララが、耳と尻尾を振り回しながら2人に飛びついた。
「すき焼き行くの!?いつ!?私も行きたい!」
「だから、そこはお前次第なんだよ」
「え?そうなんだ......ハンバーガーとかでもいいよ?」

──その妥協は何なんだ?

私は思わず失笑し、2人はまた、涙を流すほど爆笑している。
それはこの4人で過ごした数日間で、何度も見た光景だった。

発車のベルが鳴る。
デッキに立つルドルフとホームの私たちとを、列車の扉が隔つ。

「頑張るんだぞ、ウララ!」

ルドルフは席へと移動することもなく、デッキからいつまでも私たちに向かって手を振っていた。


高知駅前のハンバーガーショップで手軽にランチを済ませ、さて帰ろうかというその時に、私のスマホが微かに震え、LINEの通知が入った。相手はルドルフである。

『私との入れ替わりに、新たな増援を依頼しておいた。君たちがもし、まだ駅近くにいるようなら、迎えに行ってほしい。予定通りならまもなく到着するだろう。きっと力になってくれる筈だ』

「あら、増援が来るみたい」

私がそう言ってスマホを閉じ、ポケットに入れかけた時、スマホがもう一度震えた。やはり相手はルドルフだ。

『呼吸を知り、支配しろ』

呼吸──?
支配──?

その他に何も書いてない。内容はそれだけだった。気にはなったが、次の行動をとらなければならない私は、それを後で考えることにした。

「増援?誰だ?」
私の様子を見たのだろう。潮時と察したテイオーもまた、伝票を摘みながら立ち上がる。
「それがね、誰だとは書いてないのよ」
バッグを持ち上げ、レジへと向かう。
「......お楽しみってことか?」
「そういうことみたいね。あの人らしくもないけど」
店は混み始めてきたようだし、スマホで調べてみると、確かに下り列車の時間は迫っていた。ルドルフが時刻を確認しながら連絡しているのだろうし、問題なく間に合わせるだけの時間はあるが、急ぐに越したことはない。
「ウララ、早くしなさい!」
私は、余った3人分のポテトフライを両手で強欲に頬張っているウララを振り返り、促した。
「あーん、トレーナー!待ってよー!」
両頬を大きく膨らませたまま、ウララが嘆く。
「全く、いつまで食べているのよ?おまけに口の周りがケチャップだらけじゃないの。ほらナプキン!これ使いなさい!」
「だってもったいないよー。食べ物は粗末にしちゃいけないんだよ?」
「仕方ないわねぇ」
私は最後に残った一つまみを自分の口に入れた。
「これでいいでしょ」
「あん、ずるーい!」
「いいから!早くしなさいったら!」
私は一つため息を吐いた。
主婦なったらすぐ太るとはよく言われているが、原因の一つは間違いなくコレだろう。御前の将来まで、要らぬ心配を寄せてしまいそうだ。


その後、私たちは改札口の正面に立ち、往来に見知った顔はないかと目を凝らした。土地柄ウマ娘の数は少ないだろうと踏んでいたが、やはり夏休み期間中ということもあり、遠方から来たと思われるウマ娘達の姿が人に混ざって想像以上に多い。どうやら私たちの人探しは、すんなりとは終わりそうにない様子である。
「なあ、アイツにもう一度連絡して、名前くらいは確認した方が良くないか?」
テイオーがそう言う。確かにもっともな意見だ。そう思いながら、私は少し想像した。
ルドルフの紹介という形で派遣されるという今回の増援は、果たしてルドルフと、そして私たちともどういう繋がりを持ったウマ娘なのだろう。
ルドルフと親しいというような、彼女の交友関係からの人選であるならば、ミスターシービーあるいはマルゼンスキーあたりが妥当な線だろうか。しかしマルゼンスキーなら自慢の愛車で来るだろうし、もしシービーで正解なのだとしたら、彼女は遅刻してくる可能性が大いにあり得る。下り列車の本数は少ないので、もしそうだとしたら大分待たされそうだ。
一方、生徒会繋がりであるならエアグルーヴとナリタブライアンの顔が浮かぶが、この2人は生徒会役員だ。会長が不在という現在、すれ違いとはいえ、1日でも学校を空にすることは彼女たち自身が許さないだろう。
では、私やテイオー、そしてウララと親しい間柄からというのなら──

と、そこまで考えたその時だった。

「流石は南国四国、熱い日差しが身を焦がすようだよ......ああ、太陽よ!いずれ覇王として世に君臨するこのボクの姿が見えるか!?ボクだけを照らしたまえ!この高知から、灼熱のプロローグを始めようじゃないか!」

姿のないところからそのような口上が聞こえてきて、私はギョッと驚いた。

大仰極まりない台詞回し。
手を腰に当てて顎を引き、斜に構えて流し目をくれる。それが実にサマになっている立ち姿は、まるで歌劇団の男役を思わせた。
自らを覇王と名乗り、未だ訪れぬ次世代の強者を目指すウマ娘。

観光客の最後尾から大きく間を開けて私たちの目の前に現れたのは、間違いようもなくテイエムオペラオーだった。

「オペちゃん!」

ウララがパッと顔を明るく綻ばせ、改札口へと飛び出した。
「これはこれは。熱烈な歓迎に感謝するよ、ハルウララ。少し離れている間に、ボクの顔がそんなに懐かしくなったのかな?」
「『おーえん』が来るって聞いてたけど、まさかオペちゃんだとは思わなかったよ!また一緒に練習出来るね!」
「はーっはっはっは!会長直々のラブコールとあれば、断る訳にもいかないだろう?溢れ出づるボクの魅力は、会長の心底にまで届いていたというワケさ!」
「いつも思うけど、オペちゃんはすごいね!誰もそうは言ってないのに、自信満々なんだね!」
「おやおや?ウララは知らなかったのかな?太陽が大地を照らすように、月が夜空に輝きを与えるように......ボクのウマ娘人生において、ボクがボクであり続けるということは、そう!この世界の摂理!根幹!揺るぎないセオリー!終わりなき宿命の物語なのさ!」
「すごい!すごすぎて、何だかよくわかんない!」
「心配するなウララ!今にきっと、君にもわかる日がきっと来るさ!」
「来るかな!?」
「来るとも!さあ、ウララよ!共に笑ってその日を迎えようじゃないか!」

はーっはっはっは!
はーっはっはっは!

オペラオーにウララ。
高知駅の改札口に高笑いが二つ響く。
それとは対局的に、私たちはただ呆然と立ち尽くすのみだった。
周囲からの好奇の視線は私たちにも向けられていたが、それにさえ構ってはいられなかった。

テイエムオペラオー
──何故
何故あって彼女が此処へ?
全てがわからなかった。

「おい......なんだ、この......変なヤツは!?」

一応は言葉を選んでは見たものの、さりとて相応しい表現は見つからなかったらしい。こめかみに青筋を浮かべたテイオーが私の襟首を掴まんばかりの視線をぶつけてきたので、私はたじろいだ。
「知らないわよ!」
「あぁ!?」
「いや、彼女の名前は知ってるわ。テイエムオペラオーよ。ウララの同級生」
「てことはアレは......中等部なのか?成績は?」
「今年の新入生よ。成績は......私の記憶に間違いがないなら、彼女も未勝利のはずだわ」
「な、なんだと!?」
「選考会での走りは見たわ。芝の有望株ではあるけれど、彼女と契約したというトレーナーの話はまだ聞かない。つまり彼女は、レース自体に出たことがないのよ」
「何だって......ヒヨコと走った方がマシじゃないか......」
私の説明を聞くたびに、テイオーの顔色が赤くなったり、青くなったりしている。無理もないだろう。私だってきっと、そうなっているに違いない。この人選を下したルドルフの意図が全くもって不明だ。確かにウララとオペラオーは仲がいいが、未勝利ウマ娘から吸収してプラスになる要素がどれほどあるというのだろう。
テイオーの驚きと激昂は止まらない。
「そんなのが応援によこして、一体何をさせろっていうんだ!?しかも芝だって!?ウララはな、今じゃ高知のレコードに迫る走りをしているんだぞ!」
「私もそう思っているところよ!彼女を選んだのはルドルフだもの。真意は分からないわ!」
「くっ......確認しろ!」
「わかってるわよ!」

はーっはっはっは!
はーっはっはっは!

2人の高笑いは、まだ競うように続いていた。

「おい、そこのバカ2人!さっさとタクシー乗り場まで来るんだ!置いていくぞ!」

来てしまった以上、受け入れないことには仕方がない。
苛立つテイオーを先に行かせ、私は2人の尻を文字通り叩き、背中を押すようにして高知駅を後にした。

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高知トレセンに戻り、グランドに入ってみたところで驚いた。
オペラオーは、ルドルフから応援を依頼されたのは間違いないが、特にルドルフから具体的なサポート方針を聞かされていないという。
「まあ、ボクの放つ輝きは見る者に活力を与えるらしいからねぇ。さしずめ、歩くカンフル剤とさえ言えるんじゃないかな?そうだ、宿舎の各部屋にもボクのポスターを配るといい。今にウマ娘のトレーニングに欠かせないものになるだろうさ」
「......そんなピラミッドパワーみたいなウマ娘がいてたまるか」
「もちろんそうだろうとも!4000年にわたる叡智さえ、ボクの前では朝露の若き、という訳さ!」
「......何かもう一周して面白いよ、お前」
「はーっはっはっは!」
「笑うな」


肝心のルドルフとは電話でもLINEでも連絡が取れず、中二週間で前回よりはマシとはいえ、時間もない。いつまでも睨めっこを続けてみたところではテイオーの苛立ちは増すばかりだろうし、そもそも、オペラオーとは話し合いにさえならないようだ

「とりあえず、走ってみる?」

仕方なく、と言うのも変だが、ともかくうそういうことになった。

そして夕刻。

「......捗ったわね」
「......意外にな」

結果から見ると、ウララとオペラオーのトレーニングはかなり噛み合った。ダートの並走はもちろんだが、ゲート練習、追い抜きスラロームでさえ、ウララのタイミングを邪魔することもなく、更にはオペラオー自身の走りのスタイルをも見失うことはなかった。総じて、走りのレベルはかなり高いと言えるだろう。
「どうだい?ボクの走りは?」
自画自賛は既に100点満点で済ませているとでもいうのか、オペラオーはまるで勝ち誇るかのように私たちの前に立った。
「なかなかいいじゃない?将来が楽しみだわ」
私は率直にそう言った。オペラオーは芝を目指すウマ娘だと思ってはいたが、距離とトレーニング次第では、将来的にダートの重賞さえ狙えるかもしれない。そう思わせる脚だった。
「ふふふ......トレーナー君、これはほんのプロローグさ。しかもその前奏に過ぎない。ボクとしても、ボクの輝けるウマ娘としてのレース人生の、その序章にウララが参加してくれるなんて嬉しいよ!今日という日は、共に歩む新世界への新しい門出となるだろう!」

ビシッ!

オペラオーのポージングは完璧だ。宙を舞った指先が静止した瞬間などは、音まで聞こえてきそうだった。
どうやらオペラオーは、デビュー前にもかかわらず、ウララへの増援とされているはずのこの一件を、既に自らの現役生活の一部として捉えているようだ。性格的には自己中さえ超越した、真のポジティブ思考なのかもしれない。
その様子を脱力しきった半眼で見つめていたテイオーが、トレーニング用具を満載にしたカートと、コースに散らばる大量のパイロンを指差しながら言った。
「そうかそうか。それは確かに素晴らしいな。じゃあその門出のついでの始まりに、トレーニング道具を倉庫に運んでくれないか。我が同志ウララと共に、な」
「お安いご用さ!行くぞウララ、彼の倉庫を目指すのだ!共に歩まん!」
「歩まんじゃないかー!」
クラーク博士の立像の様に倉庫を指差したオペラオー。
拳を振り上げてそれに追随するウララ。
そんな2人を見送ったテイオーは、やれやれといった様子で頭を掻いた。
「ふん。慣れればこんなもんか」
口をへの字に曲げ、眉まで下げながら、テイオーは呟いた。私はそんなテイオーの顔をまじまじと見つめ、言った。
「あなたって本当に面倒見がいいだけじゃなく、そもそもの人扱いが上手いのね」
「やかましい......ところで、何故だと思う?」
「何が?」
「オペラオーとウララのトレーニングが噛み合った理由だよ。同級生で仲がいいのはわからなくもないが、それにしても出来が良すぎる。ダートの適性が芝より低いとは思えない走りだった。アイツは、本当に一般入試なのか?本当は、ウララと同じような特別奨学生か何かなんじゃないのか?」
私は顎に指を当てて記憶を整理し、考えた。
「確かに彼女の走りのレベルは思いがけず高いけど、そんな話は聞かないわ」
「そうか」
「ウララの中央デビュー戦の時と比べた場合だけど、現時点でオペラオーの走りはそれに近いものを持っている。経験値の少なさから考えると、この成績は驚異的よ」
「何故デビューしないんだ?トレーナーの間でウワサにもなるだろう?」
「その通りね。実のところ、獲得に躍起になっているチームは一つや二つじゃないのよ。あのリギルでさえ目を付けたらしいわ。でも、どうしてか彼女が首を縦に振らないのよ」
「チーム探しか......息の合いそうな相手が出てくるのを待っているのかもしれないな」
その言葉を聞いた時、私ははたと思い出した。ルドルフからのLINEである。
「そうだ、これを見て頂戴」
私はバッグに入れていたスマホを取り出すと、ルドルフとの会話画面を呼び出した。

『呼吸を知り、支配しろ』

その画面に顔を近づけて、そう何度か繰り返し呟いていたテイオーだったが、やおら顔を上げると、その眉間には深い皺が刻まれていた。
「これは本当にルドルフからの連絡なのか?」
「もちろんそうよ?これはルドルフとの会話画面だもの」
「......そうか」
テイオーはまだ倉庫で片付けをしているオペラオーとウララに対し、確認するような視線を向けた後、私に言った。
「アンタ、出来るか?」
「え?」
「呼吸だよ、呼吸。それについて、誰かに教えた事あるか?難しいと思わないか?」
「それは......」
変な質問だと思った。私はウララを含めて5人のウマ娘と関わった経験がある。レース中の呼吸については、その都度その個人に合わせて指導してきたつもりだ。有酸素運動、無酸素運動の効果や有効性についても、説明しろと言われたら距離毎に淀みなく論じることには造作もない。テイオーにしてもそうだろう。安田記念を制したマイルの帝王の二つ名は伊達ではないだろう。例えばウララにアドバイスを求めらたとしても、それで言葉に詰まるとは到底思えない。
「それはもちろん、出来るわよ」
「じゃあ、それが出来るアンタは呼吸を知っている、としてだな。アンタは今現在呼吸を支配していると言えるのか?」
「それは──」
そう何かを言いかけたが、私は言葉に詰まった。何しろ「呼吸を支配する」という言葉の意味合いが分からない。正直なところ、考えたこともなかった。
そんな私の反応を見たテイオーは、私の言葉を待たずに続けた。
「──な?答えられないだろう?アタシは難しいと思っている」
テイオーは私の反応を予測していたかのように頷くと、再び倉庫周辺に目を向けた。
「ルドルフの奴め、何故わざわざこんな書き方をする?支配だって?アンタはこの意味がわかるか?」
「それは......呼吸をコントロールして、その効果をいつ何時でも発揮できるようにするっていう、そういう意味なんじゃないの?ウララには確かに必要な技術だわ」
「それが技術だとすれば、尚更わからない」
「え?」
「知りさえすれば出来るだろう、そんなことは。何しろ呼吸なんだぞ?普段の生活の中で、それこそ生まれた時から無意識のうちにやっている行動の延長線上にそれがあるとしても、それが最終的な完成形とは思えない。それで支配したことになるとも、アタシには思えないね」
ウララたちを見つめながらそう呟くテイオーの表情はひどく固い。普段は見せない顔つきだ。
彼女をそうさせているのは一体何だ?何をそんなに気にしているんだろう?
するとテイオーは、やや逡巡したような間を開けてから言った。

「なあ、御前に会えないか?」

私は驚いた。
「え?それはもちろん会えるけど──ていうか、明日行くことになってるわよ?もしかして、知ってたの?」
「全然......ちょっと待て。確認の為に聞くが、その都合は、アンタが付けたのか?」
「いいえ、駅にいる時に向こうから電話があったのよ。塾生のトレーニングに付き合ってくれないか、って」
「何だと!?」
今度はテイオーが驚いた。目を見開き、そして何かを確信したかのように何度も頷いた。
「そういうことか........それでようやく合点がいったよ。この呼吸についての話は、おそらく御前が発端だ」
「どういうこと?」
「前に、御前から同じこと言われたことがあるんだよ。天皇賞の時か、いつだったか」
「本当に?」
「ああ。おそらく御前は、レースを走るウララを見た上で、ルドルフにその言葉を預けたんだ。ルドルフであればその鍵となる生徒を、増援に向かわせる手筈をつけるだろうと、そこまで予測した上でな」
「だとすると、ルドルフはこの言葉の答えに辿り着いている事になるわ」
テイオーは頷いた。
「ああ、流石と言う他にないな。つまりルドルフがオペラオーを送り込んだことには、明確な理由があるんだ」
私は頷いた。

「もしかしたら──」テイオーが言った。「これはアンタへの課題なんじゃないのか?」

私は驚いた。しかしそう考えれば、ルドルフと連絡が取れないという現状にも説明が付く。御前の意思も介在するというのなら、如何にも御前らしいと言えなくもない。手助けはするが答えは自分で見つけろ、ということなのだろう。
と同時に、時折テイオーが発揮する洞察力の深さには、改めて感心させられる思いがした。これまでは自由奔放、傍若無人のイメージがある彼女だが、ウララと再会した後というもの、ことウララ絡みとなると私でさえ気づかないような瑣末な言葉や、隠された意識に対して鋭く反応している。本来の素質が目覚めたのか、それともウララを思うが故の行動なのかはわからないが、これほどに心強い相棒はいない。私はそう思った。

テイオーがまたウララたちの方を見た。私もそれに倣う。

「ところで明日、御前のところへ向かう要件は何だ?」
「ある塾生と、併せをすることになっているわ」
「だとしたらそいつも鍵になる」
丁度、最後のパイロンが倉庫に収まったところで、2人が私たちを振り返った。

「よーし、帰るぞ!寮に帰るまでがトレーニングだからな!その後は風呂とメシ!メニューのリクエストは早い者勝ちだ!走れ!」

両の掌を頬に当て、テイオーは2人に向かってそう叫んだ。そんなテイオーの声に反応し、2人が嬉々としつつ猛然と走り寄ってくるのを見ながら、私はテイオーに言った。

「あなた、今すぐにでもトレーナーになれるわよ。本当に」

やかましい、と言われたのは言うまでもない。











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