明日への道/ハルウララとの対決まであと1日

あれは忘れもしない、私の高知デビューの前日。

夏だというのにその年は夕立さえ訪れる事は稀で、高知の空はどこまで青く広がっていた。照りつける日差しは強く、常にジリジリと肌を焼き、肌の弱い私は、アームカバーを常に装着しておくようにと、先生から注意を受けていた。

「ハルウララは無視する......ですか?」

明日にデビュー戦を控えたその日、クラブハウスに呼び出された私は、先生から伝えられた話の内容が上手く飲み込めず、失礼とは知りながらもつい聞き返してしまった。

「そう」

先生の返事は短かいものだった。

「意味が分からないかしら?」

図星を突かれハッとなる。しかし対戦相手を、しかも前走にまるで奇妙とさえ言える程の強さを見せつけたハルウララを、私がこの一週間、徹底して警戒し続けたハルウララを、マークから外せと言うのか。

皇帝塾のクラブハウス。今ここにいるのは私と先生の2人きりだ。先生はパソコンのモニターを見ていた。モニターの中にはハルウララと、同期門弟のゼネラルエムシーが、イブキライズアップと激しくハナを争う姿がある。
先生は私と話をする為にここへ呼び出された時から見ていたし、話をしている間も、そして今も、静かにモニターを見ていた。
部屋の片隅で、扇風機だけが低い風切り音を上げていた。

「ならもう一度言うわ。ハルウララは無視しなさい」

ビゼンニシキ。それが私の先生だ。
ハンター。狙撃者。
捧げられた二つ名は数あれど、実のところ、先生の存在をより明確にした言葉がある。

『影』だ。

皇帝シンボリルドルフを常に付け狙い、あたかも影であるかのように、常にその背後に存在したウマ娘。
そして影の宿命であるかのように、その実体を乗り越えることは無く、常に後塵を浴び続けたウマ娘。
それがビゼンニシキ。
私の先生だ。

「ギガレンジャー」
「はい」
先生が私をフルネームで呼んだ。私の意識はより引き締まり、姿勢を強固にした。
先生はモニターから視線を外し、私を見ながら言った。
「あなたがこの一週間、ずっと努力をしてきたことは、私も知っているわ。距離はもちろん、ペース配分やコース取りまで、全てをハルウララに合わせてきた。そうよね」
「はい」
「ハルウララには勝てそう?」
「負けるつもりはありません」
「そうね。あなたは準備のいい、本当に良い生徒よ」
先生はそう言うと、軽いため息を吐きながら立ち上がり、私の正面に立った。
「あなたが考えている通りに、今のハルウララは強いわ」
私は黙って頷いた。特にあのフットワーク。私が噂で知っていたハルウララはもう何処にもいない。その事は、あの日にゼネラルエムシーが泣きながら教えてくれた。
「ハルウララはもう、昔のハルウララじゃない」
先生が私の思考をなぞった。
私は言った。
「しかし先生、私はそんなハルウララが相手だとしても、油断するつもりはありません」
すると先生はまた、ため息を吐いた。
「レンジャー、私は『無視しろ』と言ったのよ。『油断しない』は、『無視』とは真逆の行動よ?」
「......」
「理解することに苦労しているみたいね」
私は、頷くことも出来なかった。
そんな私を先生は、椅子に座るように促した。

モニターには、ハルウララがいる。イブキライズアップがスパートをかけた直後、殆ど同時に集団から抜け出し、その後怒涛の勢いでゼネラルエムシーを抜き去っていた。とても未勝利ウマ娘のものとは思えない、そんな脚だった。

「あなたの目標は?」

不意に、先生が私に聞いた。
「レースに勝つ事です」
私は即答したが、先生は首を振った。
「それは本当にそうなの?」
そう言われて、私は改めて先生に伝えるべき言葉を自分の中に探した。それは直ぐに分かる事だった。

でも、私は言わなかった。

「レースに勝つ事です」

私は繰り返し言った。言った瞬間、胸を突かれたように息が詰まった。
少しの間の後、先生が言った。
「あなたに、無心についての話はしたかしら?」
「無心──ですか」
何度か聞いたような気はしたが、よく覚えてはいなかった。私が正直にそう伝えると、先生は頷き、壁にかけられていたホワイトボードに近寄った。そしてそこに書かれていた文字を全て消し、代わりに大きな円を書いた。
「この円があなた自身の心の中で、かつあなた自身だと思いなさい。あなたはこの通り、あなたの心を空っぽにしなくてはならない」
「それが無心ですか?」
先生は首を横に振った。そして、今度はゆっくりと時間をかけて、イレーザーでその円を消していった。
「それだけじゃ足りない。空っぽにしたその先、更にその先、その奥と突き詰めていくと、最後にはこの円さえ消える。その時、あなたは世界と一体になる。そこには敵も味方もいない。あなたさえいない。現在も過去も未来もない。それが無心よ」
「申し訳ありませんが、私の理解を超えているようです」
仏教の教えにある、悟りの境地のことだろうか。先生は偶に、仏典からの教えを引用して私たちを指導することがある。今回もそうなのだろうか。私はそう思うことにはしたものの、いささか話が難しすぎてついていけそうになかった。
「これはね、レンジャー。理解する必要もないのよ。無心になれば同時にそうなるの。執着ではなく、集中とも違う、あなた自身の未到の領域。あなたがその領域に達したその時には、ハルウララの事も、きっとあなたの心から離れていく。あなたがそれを見送る事が出来ればいいの。それだけでいい」
「そうすれば、勝てますか」
先生は言った。
「勝つ前に、無視する事が重要な課題になるわよ」
私は言った。
「もし、無視出来なければ、どうなりますか?」
「あなたが今まで積み重ねてきた努力は、無に帰るでしょうね」
「私には失うものはありません」
「レースで失うものがなければ、レースに勝てるのかしら?」
「勝ちます。レースに勝つ為なら、私は死んでも構いません」
「その考えは捨てなさい」
「先生、さっきから意味のわからない事ばかり言わないでください。明日に向けての指導をお願いします。私は勝ちたくてここに来たんです。私は勝たなくてはならないんです!負けられないんです!」
私は泣いていた。いつの間にか、私の感情は抑えきれなくなっていた。そんな私を正面に見ながら、先生は短く息を吸い、明らかに意識しながら言った。
それは、さっき私が隠した言葉だった。私の目標というよりは、差し詰め私の『生きる理由』だった。

「鏑矢銀行の為よね」

鏑矢銀行。

それは、ウマ娘の陸上競技チームを抱える、ある地方銀行の名前だった。その規模は金融業界においてどのチームより大きく、歴史も実績もある。活躍の場は広く、過去には世界的なメダリストさえも排出した、国内屈指の名門である。

「そうです!私たちはあそこに入って、私たちを馬鹿にしてきた奴らを全員見返してやるんです!私はその為にここに来ました!先生だって私たちを認めて指導してくれたじゃないですか!蹄鉄シューズだって、買ってくれたじゃないですか!
私は嬉しかった。先生が私たちの初めての理解者だったんだもの。そんな先生に言われたから、今回だって今更トレセンに入る事を決めたんです!オリジナルステップとかいうあの女に私が利用されるんだとしても、先生がそう言うから私はそうするんです!
先生、お願いします!指導してください!ハルウララに勝つ方法を教えてください!私はまだ弱いですか!?ハルウララに負けますか!?私は負けたくないんです!お願い!お願いします先生!」

私は叫んだ。泣きながら叫んだ。
しかし先生の耳に私の声は届いていないのだろうか。今の先生は、私たちにいつも優しく、力強く指導してくれた先生とは、まるで別人のようだった。

「あなたがやるべき行動は一つ。たったの一つだけ。ハルウララを──」
「先生!」
「──無視するのよ」
「先生!」

モニターの中で、ゼネラルエムシーがハルウララに何度も負けている。技術で負け、スピードで負け、力で負け、気力でさえ負けている。無限に続くその光景はさながら煉獄のようだった。私は、ああなるつもりはない。エムシーの仇を討つつもりもない。ただ勝つのだ。レースの中の誰よりも速くゴール板を駆け抜けてやる。

「今日、新しくわかった事があるの」

先生が不意に言った。
「シンボリルドルフが高知に来ているらしいわ。ハルウララのコーチとしてね」
シンボリルドルフ。
皇帝と呼ばれる七冠王者。
その名前を聞いた瞬間、私の涙は勝手に止まり、心の中に一陣の風が吹き込んだかのように意識が鮮明になった。シンボリルドルフとは名前にさえウマ娘としての強さを持つのだと知り、私はそれに驚いた。
「何故、皇帝があのハルウララに?」
「それは分からない。でも、中央が贔屓と呼ばれても仕方のないような高待遇でハルウララを迎えているのは確かだし、ルドルフはハルウララの中にその価値があると思っているようね。ルドルフのウマ娘の実力を測る眼力は私以上に確かだし、もうその時点で、それはハルウララが強者であるという裏付けにもなるわよね」
「......」
「シンボリルドルフと私の関係は、あなたも知っているわね」
私は黙って頷いた。言葉を口にする事さえおこがましいとさえ思えたからだ。
先生は続けた。
「私はルドルフに勝てなかった。何度も挑戦したけれど、ついに一度も勝てなかった。彼女は常に強かった。どんなに私が対策を施しても、それは変わらなかった。その対策が甘かったんじゃない。トレーニング中に私が抱いていたルドルフのイメージと実像とが、常に途方もなく乖離していたのよ。それ程に彼女は奥深く、強かった」
「......」
「引退してからも、私は、自分に足りなかった物を探し続けた。全国を転々としながらね。そうして何年かが経った時、私はある場所で無心という言葉を知ったわ」
「......」
「無心さえあれば、とは私は思わない。でもあの時の私に必要だったのは、間違いなく無心の境地だった。そして当時、私がしがみついていた全ての事柄は、私には必要がなかったのよ。ルドルフの背中さえ──全く、皮肉な話よね」
そこまで喋ると、先生は部屋の入り口まで歩き、ドアを開けて私を見た。

帰れ、という意味なのだろうか。
話は、終わりなのだろうか。
先生が話している間、私は何も言えなかった。
悔しさが込み上げて来たのは何故だろう。

私は頭を下げ、歩き、先生に言った。

「ハルウララはルドルフとは違います。そして私は──先生とは違います」

先生の脇をすり抜け、ドアを潜った私の背中に、先生の声が届いた。

「いってらっしゃい」

レースの前に、いつも先生がかけてくれる台詞だった。それは昨日までの私にとって、魔法の言葉だった。その言葉が、常に私を無人のゴールまで運んでくれているような気さえしていた。

しかし、私はそれに答える事も出来ず、振り向く事さえしなかった。


[newpage]

私は、目標があった。

私は、ウマ娘としてただ走りたいという気持ちだけで蹄鉄シューズを履いてるのではない。鏑矢銀行が所有する実業団陸上チームに入りたかったのだ。ある年齢までの間にウマ娘として褒められる程の実績をぶら下げる事が出来れば、銀行の陸上チームからスカウトを受けられる。そこで人並み以上の給料を貰いながら、チームの一員として走り、引退するまでに財産と呼べる程度のものを手にしていたい。それが私の、最終的な目標だった。

私には双子の妹がいる。ギガエルフだ。築60年、木造四畳半の暗く湿ったアパートで、場末のキャバレーでホステスを生業とする母の股から生まれた私たちは、その時点で既に世間から見放されているようなものだった。私たちがどんなに将来の夢を語り合おうと、その場所にいる限り、私たちは人間と比べてほんの少し脚が速いだけの、イカれた場所に耳のあるただの『シッポオンナ』に過ぎなかった。学校に通い、日が進むにつれ、そして母の連れ添いの顔が覚える前に変わっていく度に、その思いは確信へと変わっていった。
しかしある日、鏑矢銀行の実業団陸上チームに所属するウマ娘が、テレビのCMに出ているのを私たちは見た。そのウマ娘が東京湾岸のタワマンに住み、高級外車を乗り回していると知った時、私たちは、私たちの目の前に一本の道が伸びている事を知った。細い細い、蜘蛛の糸にも似た一本の道。だがその道を辿れば、私たちは世間から金持ちと呼ばれる場所まで、世間がそうと認めざるを得ない高みまで、到達する事が出来るのだと気がついた。私たちはその瞬間から、その糸を必死になって手繰り寄せた。底辺のどん底で馬鹿にされながら走り、足掻き、徹底的に意地を貫き通した。そうしている内に皇帝塾を知り、そこで出会ったのが先生だった。そんな私たちを、先生は特待生として迎え入れてくれた。

「あなたたちの目標は?」
「鏑矢銀行」

先生からの最初の質問。将来の目標を聞かれた時、私たちは声を揃えてそう言ったのを覚えている。そんな私たちに、先生はその日のうちに新品の蹄鉄シューズを買ってくれた。私たちの将来の為に何かをしてくれる他人がいることを、私はその日初めて知ったのだった。

やがて時期が来て、実績の質を求めた妹は塾からの推薦を受けてトレセンに入った。
一方、実績の量を求めた私は、それを横目に全国のアマチュアの大会を駆け回り、賞金稼ぎとして名を上げた。皇帝塾の名義があれば、地方トレセンの中等部と同等の扱いを受けられたので、私は餌場に困る事はなかった。
しかし先月、皇帝塾に現れたオリジナルステップというウマ娘が、私を高知トレセンにスカウトしにやって来た。中央に行ったハルウララを高知で迎え撃ち、倒す為にだ。
私は最初、変な話だとしか思っていなかったのだが、先生は何故かその話をいたく気に入り、私に入学を強く勧めてきた。私は迷った挙句、特待生としての待遇と、既に入寮している妹との同室に入る事、今年いっぱいという期間、そして在学中に妹とは絶対に闘わないという約束を条件に、高知トレセンに入学することにした。

「どうしたの姉さん、顔色が良くないよ」

高知トレセンの寮。部屋の隅っこでそんな事を考えていた時、妹のギガエルフは私の顔を見ながらそう言った。
「明日のレースの事でも考えてた?」
「うん。まあ、そんなところ」
私は、抱き寄せた膝を見つめたまま答えた。
「姉さんなら大丈夫だよ」
妹は自分のベッドに腰掛けながら、蹄鉄シューズに釘を打ち込み、何度も細かい調整を繰り返していた。

「ねえ、ここは楽しい?」

そう尋ねた私に、妹は顔を上げ、首を横に振った。
「そういう言い方では答えられないかな。楽しいか楽しくないのかで答えるには難しい場所よ」
その答えは答えになっていなかったが、その言い回しは実に妹らしいもので、私は少しだけ安心することができた。
「そうなんだ」
「姉さんはどう?塾とレースは楽しい?
私もまた、首を横に振った。
「よくわかんない。先生と喧嘩しちゃった。そういう事になるのかな、多分」
「──あらまぁ」
そう言って顔を上げた瞬間、また涙が落ちて、妹は驚いたような、けれどもやはり妹らしいのんびりしとした声を上げた。
「姉さん、これあげる。このままじゃ明日のパドックが台無しになっちゃうよ」
妹は部屋の冷蔵庫から保冷剤を取り出すと、私の目の前に差し出した。私はそれを受け取り、目頭に押し当てた。痛いほどの冷気が私の顔から熱を奪っていく。ああ、これで安心だ、と思った瞬間、気持ちが緩んだのかまた涙が出た。
「ダメだよ姉さん。それじゃキリがないじゃん」
「いいの。もうコレあるし。泣いていたいの。私は」
「テレビでも見る?サッカーやってるよ。何かの決勝だったかな」
「嫌。サッカーなんかつまんないよ」
「じゃあお風呂にも入ったんだし、もう寝ようよ」
「嫌よ。私知ってるもん。消灯時間までまだ1時間くらいあるもん」
「何よもう、駄々っ子ねぇ」
私は、私の肩を引く妹の顔が視界に入らないよう、無理矢理首を捻り顔を背けた。

「一緒に寝てくれないんだったら、寝ない」
「もう泣かないなら、いいよ?」

私はついに頷き、しかし顔は背けたまま、長い間居座っていたその場所からようやく腰を上げた。


「姉さんはさ、いつもこんな感じだったよね。私、全部覚えてる」

シングルベッドの狭い空間に体を寄せ合うには、8月という季節は暑すぎた。それでもパジャマに着替えた私たちは、自分の肘を枕にしながら寝転がり、会話を続けた。
「弱虫で、怖がりで。意地っ張りなくせに構ってちゃんだし。どんなに練習しても心配性だけは治らなくて。レースの前の日はいつも泣いてた。ふふっ、全部が今日みたいだったね」
「そんなにディスらないでよ。また泣いたらどうすんの?」
「泣いたらいいじゃない。保冷剤ならいくらでもあるわよーだ」
私そっくりの顔が目の前で笑う。
バツが悪くなった私は、しかめっ面を作るようにして固く目を閉じた。

「姉さんなら大丈夫。だって私の姉さんだもん」

瞼の裏の闇の中に、そんな妹の声だけが響いた。
「昔からもそう。いつも誰かにいじめられている私を、姉さんはいつも庇ってくれた。だけど後になってからその時の怖かった事を思い出して、泣いてしまうのもいつも姉さんの方。あべこべだねって2人で泣きながら笑い合って、布団の中でいつもこうして喋ってた」
「忘れたい思い出よ」
「そんな事言わないで。私たちの思い出なんて、それくらいしかないんだから」

不意に髪が撫でられた。

「私の姉さん。可愛い姉さん。今夜はずっと私がそばにいるから、もう大丈夫だからね」

心が、溶けていく。

妹の言った事は正しかった。
何処かで妹が泣いているとなると、私は前後の見境なく妹を庇い、これまで何度も妹の盾になってきた。でもその日の夜になると、やはりそれも妹の言う通りで、泣いているのはいつも私の方なのだ。妹はそんな私を何度も私を慰めてくれた。

『お姉ちゃん大好き。だから泣かないで』
『お姉ちゃん大好き。もう大丈夫だからね』

妹の繰り返すそんな言葉を聞きながら、今のように髪を指で何度も撫でられていると、私の心はその衣を一枚づつ剥がされていくように軽くなり、私は、この世には私と妹しか存在していないかのような、不思議な感覚を味わったものだった。

「私も大好きだよ、エルフ」

私はそう言ったはずだけれど、既に意識は重く、私の声は、妹には届かなかったかもしれない。

髪の間を通り抜けていく指の感触を何度も感じながら、いつしか私は、深い眠りに落ちていった。


[newpage]

"──それでは第5レース、勝ちましたのはネイビーグロリア選手です。今期初挑戦の2勝クラスを豪快に差し切りましての見事な勝利でした!おめでとうございます!"

早々とパドックを終えたレース当日の控え室は、妙に和気あいあいとしていて、1人だけ深刻な表情で固まっている私だけが、何だか浮いているようだった。

「あなたがギガレンジャー?エルフさんの妹でしょ?」

スポンジの抜けたパイプ椅子に腰掛けていると、栗毛というより赤毛に近い少女がいきなり話しかけてきた。
「よろしく。私、ミニミニメイフェアっていうの。今日はいいレースにしましょうね」
私はその手をまじまじと見つめた後、わざと雑巾を摘むような仕草で握手をした。
「いいレースっていうのは、あなたが勝つレースの事?」
「へ?」
「そもそも、レースに良いもの悪いもあるのかな?レースはいつも勝つか負けるか。それだけでしょ。あと、私が姉なの。どうぞよろしく」
「はあ?」
私が指を離して彼女を解放すると、彼女は舌打ちだけを一つ残し、何も言わずに立ち去った。「感じ悪」という、メイフェアのものではない声が部屋の何処からか聞こえてきたが、私は気にしなかった。

結局、寝覚めはよかった。
妹の作る朝食も全部食べた。
昨日先生とあんな事があったにも関わらず、私の体調は思いがけず万全だった。だったらそれに賭けよう。私のフィジカルは、常にメンタルよりも正直で頼りになるのを私は知っている。私はそう決めて、この部屋のドアを開けたのだった。

未勝利選手の控え室は、雑魚部屋と呼ぶべきか、タコ部屋と呼ぶべきか。人数分さえ揃っていないロッカー。逆に多過ぎるパイプ椅子。部屋の上座には四畳半程の小上がりが何故か用意されていて、その奥にテレビがあった。ゼッケン姿の2人の生徒がそこでストレッチを繰り返しているが、会話の端々には笑い声さえ混ざっている。

.(ハルウララはどこに......?)

私は目線を左右に振って、その姿を探したのだが、ハルウララはこの部屋にはいないようだ。

(ああ、だからか)

私はこの妙に緊張感の無い空間の正体に納得した。ハルウララを除く参加者全員と、何人かのトレーナーさえこの部屋には集まっているというのに、この部屋には安堵の空気が流れている。何というか、身内だけで固まった楽屋裏という感じがした。

「今日はさあ」

不意に誰かが言った。

「ハルウララが別室でよかったよねぇ?」

ゼッケン2番を付けた生徒が、部屋を見渡すように首を伸ばしながらそう言うと、その一言で空気がヒリついた。

「ちょっとお、それ考えないようにしてるんだから。言わないでくれる?」
「何で?」
「自分の走りに集中できないじゃん」
「今からそんな心配してんの?」
「何よその言い方?」

(何だ......結局カラ元気ってわけ)

言い合っているのは2番と4番のレーサーだ。名前は分からない。私は手にした蹄鉄シューズの裏側を眺めながら、その会話に聞き入っていた。

「何も心配することないんじゃない?だってハルウララだよ?前走は確かに面食らったけどさ」
「アレがマグレだと思ってるんなら、アンタも相当おめでたいわよ」
「そりゃめでたくもなるでしょうよ。だってハルウララだよ?1枠減ったようなもんじゃない?」
「前走にウララと走った奴らも同じ事言ってたわ。全員やられたけどさ」
「それはウララじゃなくて、イブキにでしょ?」
「アンタ知らなかったの?イブキにあの走りを教え込んだのは、ウララが連れてきた中央のトレーナーだよ」
「な、何よそれ?」
「本当に何も知らないの?イブキはね、当て馬にされたんだよ。ウララをレベルアップさせる為にね。イブキはさて置いて、よく考えてみなよ?ゼネラルエムシーがハナ取られたんだよ?四国のアマじゃトップランカーだったエムシーがだよ?もうウララを軽視しない方がいいよ?」
「あらあら?慎重癖もいい加減にしないと、勝てる相手にも勝てないわよ?」
「負けるべくして負けるよりは、ずっといいよ」
「──何だぁ?」
「何よ?」

不穏な空気が部屋に広がり、それがピークになりかけた、その時だった。

「シ、シンボリルドルフとアキツテイオーが走っている!」

小上がりの奥でテレビを見ていた誰かが、振り返りながらそう叫んだ。その瞬間、室内にいる全員が小上がりに押し寄せ、その姿を一目見ようと場所を奪い合った。

「何で!?何で走ってんの?ミニライブでしょ!?何が起こってるのよ!?」
「そんなの分からないよ!最初は普通にうまぴょい伝説を歌ってだんだけど、間奏に入ったタイミングでルドルフとテイオーがクルマから降りたと思ったら、いきなりレースが始まったんだよ!」
「スゲェ!こんなの初めて見た!」
「当たり前だよ!ルドルフが走ってるところを見たことある奴なんて、ウチらの世代には殆どいないんだから!」

私の位置からはテレビがすっかり隠されてしまい、映像は見えない。折り重なって群がるウマ娘達の尻と脚の隙間から、そんな声だけが聞こえてきた。

「アキツテイオーが前だ!差されるぞ!」
「でもまた抜いた!すごい!こりゃ眼福モノだ!」

皇帝がダートを走る光景に興味がない訳ではなかったが、未勝利戦という勝負を前にして、中央のファンサービスに興奮している場合では無いように思えた。

しかし──

「──ハルウララともう1人も降りた!4人で走ってる!」

それを聞いた瞬間、私は弾かれるようにその場を離れ、テレビの前列へと体を突っ込ませた。

「痛い!ちょっと!何するのよ危ないでしょ!」

畳を履い、テレビの前に伏せた私の頭の上から苦情が飛んできて、私はその方向を見上げはしたものの、その娘の首と顔は画面を向いていて、私の方を向いてはいなかった。

私もまた画面を見た。今は先頭がシンボリルドルフ、それを見るようにアキツテイオー。1馬身離れてハルウララ、そしてその隣にもう1人──多分ウララのトレーナーだろうか。ルドルフとテイオーがクルマを抜き去った瞬間に、ウララとそのもう1人が馬場に降りたに違いない。

何故だ?

これからレースに参加するウマ娘が、ファンファーレの前にもう1レースだと?

しかし私の理解が追いつく事はなく、レースは進行していった。

──目ん玉ギラギラ出走でーす

「ハルウララが回った!」
「アキツテイオーが抜かれた!?嘘でしょ!?」
「アレだよ!あのフットワークにエムシーたちはやられたんだ!」

画面を食い入るように見てはいたが、私にはそれでも信じられなかった。しかしハルウララが強烈なサイドステップからアキツテイオーを抜き去ったのは、見たままの事実だった。部た屋の割には小さすぎる17インチのテレビの中、砂塵を巻き上げて走るシンボリルドルフの後方に、ウララがじわじわと迫っていく。

「おい、まさか......」
「誰か、ボリューム上げろ!テレビのボリューム!」

その先の光景を察したウマ娘の1人がそう言うと、リモコンの近くにいたもう1人が即座にボリュームを上げた。
やはりと言うか、驚きの声を入り交ぜながら、アナウンサーと解説が、理解し難いこの状況を必死になって実況していた。

──今日の勝利の女神は
──アタシだけにちゅうをする

"依然としてこの信じられない状況は続いています!この光景は現実です!現在の高知競馬場、走っているのはシンボリルドルフ!先頭は依然皇帝シンボリルドルフ!その後にハルウララ!クインナルビー内から!外にはアキツテイオーだ!ほぼ2馬身以内に4人が固まって、今コーナーに突っ込んでいく!"
"ライブに特別な演出があるとは聞いてましたが、これはもうレースですよ!日本中が待ち望んでいた、シンボリルドルフのレースですよ!"

4人が互いのラインを激しく交差させながら、コーナーを進んでいく。
思わず唇が開き、喉が鳴る。
固唾を呑むとはこういう事なんだと、その時私は初めて知った。

"クインナルビーが前に上がる!しかし同時にハルウララ!また動いた!まるで稲妻!小さな体を大きく振って右、左、右!ル、ルドルフの前に出た!ハルウララが今、皇帝を相手にハナを掴みました!"

「嘘だろ......」

シンボリルドルフがハルウララの後塵を拝するという光景。カメラがルドルフを大きく映すが、その表情に緩みはない。強く引き締まった口元。鋭い腕の振り。巻き上がる砂煙。ルドルフが本気である事は間違いない。エキジビジョンにしては、あり得ない程の熱量だ。

──こんな、レースは、初めて♡

"アキツテイオー再び迫る!ハルウララとの差は約1馬身!おそらくゴールは、ゴールはババヲナラスクルマでしょう!ハルウララ逃げ切れるのか!今、クインナルビーが来ているぞ!ハルウララ同様にサイドステップで前を狙う!やはり......やはり格が違います!もの凄い切れ味だ!"
"伝家の宝刀『カミソリステップ』ですね!また見られるなんて!生きててよかった!"

私の喉がまた大きく鳴った。

"追いついた!残り50!前に出たのはクインナルビー!一気に先頭!ハルウララどうする!?いや抜けた!ハルウララが抜けた!"

「何だ今の!」
「スリップストリームだ!」

後方で身を潜めた後、空気抵抗を軽減しながら相手の走行スピードとタイミングを読み、前に出る。使い古された技術ではあるが、ウララのそれはまるで教科書にあるような走りだった。何しろクインナルビーが前に出たタイミングと、ウララが差し返したタイミングとの時間差が無さすぎる。前を取られたほんの数歩でそれら全てを読み切り、スリップストリームに踏み切ったとしか思えなかった。

"そして今──クルマを抜けました!1着でフィニッシュ!ハルウララ1着!ハルウララ1着でゴール!"

ウララがクルマの間を走り抜けた瞬間、クルマが金のテープを射出した。マイクが満場の観客席から感嘆の声を広い、テレビのスピーカーから場内の興奮と、この光景の異様さを伝えてきた。
アナウンサーが、なおも興奮した様子で結末を繰り返していた。

"驚きました!ライブ途中から突然始まった4人のレースでしたが、それを制したのはなんと、ハルウララです!女王、皇帝、そして帝王を前にしても一歩も引かない見事な走りでした!今、クルマのタラップを上がってきます!まるで表彰台!世界一高い表彰台です!笑顔で手を振るハルウララ!クインナルビー、シンボリルドルフも今上がってきました!アキツテイオーも......テイオーは......おや、アキツテイオーは......?"

様子がおかしい。
クルマ一台がいつまで経っても空のままだ。アキツテイオーの姿がない。どうしたんだと思った時、カメラが切り替わった。

"──アキツテイオーが倒れている!"

突然、アナウンサーがそう叫んだ。

"レースが終わったと思われる地点で横たわっているアキツテイオー!大丈夫でしょうか?"
"接触は一切ありませんでしたが......あ、膝頭を押さえていますね。意識はあるようですが、ずいぶんと苦しそうです。靭帯でしょうか?"

画面の外からタンカを担いだスタッフ達が走り寄ってきて、ダートの上が突如騒然となる。他の中央のメンバーもクルマを降り、慌てた様子でテイオーの周りに集まっていく──という場面で、画面は突然カラーバーになった。

「え、終わり......?」

私の頭の後ろから、面食らったような声がした。アクシデントがあったのは確かなようだが、詳細を確かめる術はない。やがてテレビの前から人垣は消え、小上がりは空になった。

(何だったんだ今の......?)

私もまた、自分の席としていたパイプ椅子に腰を下ろした。

"──ご来場の皆様にお知らせいたします。現在、馬場の再調整中です。第6レースは予定時刻より15分程度遅れると見られています。お心待ちのところ申し訳ございませんが、どうぞご了承ください──繰り返します。現在──"

壁のスピーカーからはそんな声が聞こえてきた。
私と、私以外の全員が壁の時計を見上げながらそれを聞いていた。

「私──蹄鉄変えよう」

誰かがそう言って、自分のスポーツバッグに手を突っ込んだのを皮切りに、室内は妙に騒がしくなった。

「私も変えよう。トレーナー、1番重いヤツ出して」
「わたし軽いのにする。ソールも変える」
「誰か、もっかいアップする人いる?付き合わない?」
「わたし行く!ちょっと併せようよ」

さっきの2番と4番が部屋を出て、以降何人かがそれに続いた。

多分、彼女たちをそうさせているのは、他ならぬウララの走りなのだろう。アレをエキジビジョンと考えるべきなのだろうか?だがそれにしては、前回にゼネラルエムシーを打ち倒したウララの脚技は、テレビの中でも更なる冴えを見せていた。集団を置き去りにするフットワーク。そして極めて完成度の高いスリップストリーム。それらがシンボリルドルフをかわし、アキツテイオーを抜き去り、クインナルビーの差し切ったのだ。そう考えれば、彼女らの行動は、ごく自然な事なのかもしれない。

(えっ......?)

その時私の脳裏に、何処からか先生の声が響いてきて、私は身じろいだ。

『ハルウララを無視するのよ』

私はゾッとした。
自分でも気づかないうちに、私の右手にはスペアの蹄鉄が握られていた。

私はその時になって初めて、先生の言葉を熟考した。
ここで蹄鉄を入れ替えれば、私は他のウマ娘同様、ハルウララを意識した事になるだろう。
しかし、この蹄鉄をここで引っ込めたとしても、それはそれで、ハルウララを意識した事になりはしないだろうか?
先生は無心であれと言った。いや、それ以前に、先生が私に伝えたかった事は、本当に言った通りの内容なのだろうか。高僧でさえ生涯及ばぬような悟りの境地が必要な程、ハルウララは強敵だとでも言いたいのだろうか

無心──無心とは何だろう。

無心とは。

──無心。


結局、私はゲート入場の呼び出しを受けるまで、その場で思考を繰り返し、最終的に考えるのを止めた。




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