高知・第6レース未勝利戦/ハルウララとの対決当日

"ご来場の皆様にお知らせいたします。4枠4番ハルウララ、現在身体検査の為、入場が遅れております。今暫くお待ち下さいますようお願い致します──"

先刻から続くそんなアナウンスを、私は聞くともなく聞き、アップした体が冷えないように、手脚の末端を振るわせては、気持ちと身体のリラックスに務めていた。

結局、時間切れという結果の下、私が蹄鉄を変える事はなかった。慣れた筈の靴底の感触と重さを、『これが私のいつも通りなんだ』と言い聞かせるのはかなりの苦労を要したが、だからといって不安が煽られるような気分でもない。

ウララがどのようなフットワークを見せようと、私は作戦を変えない。それが最良の作戦だと、私はそう思うことにした。おそらく、このメンバーの中で私と同じ追い込みスタイルの生徒はいない。中団後方からフットワークを使って前に出るウララを、最後尾から大外を回り、ゴール手前でぶった斬る。誰とも真横で競り合わぬままゴールする為には、コーナー出口の時点で相当外に出ておかなくてはならない。だから最後尾からのアウトインアウトでそれを狙うのだ。距離のロスは激しいが、スピードが殺されるよりはマシだろう。正解となるライン取りが出来さえすれば、それは充分に可能であると私は見た。

ウララと競り合うのは危険だ。ウララ自身を強者と考えた場合もそうだが、より鬱陶しいのは彼女に群がる有象無象共の方だ。ウララに先んじてフットワークを使おうとする者。ウララのフットワークを封じんとポジションを構える者。ウララの周辺はその2種類に分かれるだろうが、多分両方とも、結局はウララのフットワークに振り回される事になるだろう。連中にはウララ同様の脚技が無い。当然ウララの動きに耐えられずもなく、そんな連中の思いがけない動きに気をとられながら、自分のラインを探し、キープし続けるのは、作業としてやはり面倒だ。
だから私は耐えない。不利は被るが、耐えない。焦り慌てる連中を他所に、リラックスした思考をキープしたまま、いつも通りの作戦で勝つ。私はそう決めた。

"ハルウララは身体検査の為──"

私たちのゲート入りはとうに済んでいるというのに、会場にアナウンスが繰り返される。観客の苛立ちと期待はその度に大きくなり、やがてうねるようなウララコールが私たちの頭上に降りかかってきていた。

ウ・ラ・ラ!
ウ・ラ・ラ!

やり難い事この上ない。否応なしに集中力が削がれていき、ゲートの中で地面に疼くまる者さえいた。

そしてその後。5分か、それくらいだったと思う。
突然、会場の声援が歓声へと変化した。ルドルフ、テイオー、クインナルビー。中央の3人が観客席に姿を現したのである。その時の大きな歓声と拍手は、まるで英雄を迎え入れるかのようだった。アキツテイオーはやはり先のレースで脚を痛めたようで、大きく手を振っている他の2人に挟まれながら、松葉杖をついているのが遠目にもわかった。

その声援が一際大きく変化し、会場全体が色めき立った。
ついにウララが入場口から姿を現した。

"皆様、長らくお待たせ致しました!ハルウララの入場です!身体検査を問題なくクリアしたハルウララ!今、大きく手を振り足を上げ、ゲートへと向かいます!"

そんなアナウンスが語る通り、ウララはゆっくりと、大きなモーションでゲートへと向かい、歩いていた。いい気なもので、時折観客に向かって手を振り、ガッツポーズを繰り返しているのにはたまらず閉口した。

「単独入場かよ......プロレスラーかっつうの」

私の隣のゲートから、そんな野次が聞こえてきた。
なるほど。
確かにそんな感じではある。

ウララがゲートまであと数メートルという距離にまで近づいた時、気持ちを切り替えようとしていた私はハッとなった。

「おいアンタ!立ちなよ!立った方がいい!」

私は一つ離れたゲートに向かい、その中でうずくまっている生徒に向かい、首を伸ばしながらそう言った。
「はあ?何でよ?」
「私たちのゲート前の状態チェックはとっくに終わってるんだ。ウララがゲートに入ったら、即ゲートが開くかもしれない。不様に出遅れたくなければ今すぐ立つことね」
「あ、そうか!?くそっ──ありがとよ」
その生徒が立ったのに合わせ、ゲート内の各人が慌てるようにその場でアップする。時間が経ちすぎて私も忘れていたが、最後のレーサーがゲート入りした時点で、フラッグマンはいつでもレースを開始出来るのだ。虚を突かれたとしても言い訳にはならない。

ハルウララの気配を背中で察しながら、私は集中した。

"さあ、これで全ウマ娘、ゲートに収まりました。今、係員が離れて──第6レースのスタートです!"

思った通りだった。ウララのゲート入りが完了してから僅かに5秒後。何の警告もなく目の前で金属音が炸裂し、突然ゲートは開いた。一歩二歩と踏み出すが、追い込みの私はこの時点から視線を横に走らせる。やはり長時間待たされた所為なのか、集中力を回復出来なかった生徒が何名か出遅れていた。

「何だぁ!?」
「何なのアレ!?」

私の隣、いや、あちこちから驚きや戸惑いの声が上がる。私がその理由を察するよりも早く、アナウンサーが叫んでいた。

"さあ、スタートと同時にポーンと元気よく飛び出したのは何とハルウララ!ハルウララがレースを引っ張ります!驚きましたまさかの先行......いや大逃げか!慌てたようにスターライトビートが追走します!"

既に私の視線の奥の方、ピンクのポニーテールが上下に揺れている。それを先頭とすると、2位との差は既に2馬身以上ある。しかも相当馬鹿げたスピードだ。ただ先頭を保持しようというそれではなく、見る限りトップスピードに近い。観客席からも大きなどよめきが上がり、それが会場の空気さえも変えた。

「なんっだよ大逃げって!そんなの聞いてない!」
「あんな走りで最終コーナーまでもつもんか!馬鹿じゃないの!」

私のいる最後尾に、前方からそんな声が千切れ飛んでくる。出遅れの生徒に進路を譲り、レースの全体図は今ようやく出来上がった。

先頭はハルウララ。それに食いついた者が数名。ハルウララのペースダウンを大きく意識し、距離を取って構える者が多数。出遅れ組も多数派に加わるつもりなのだろう。あの中で各々のポジション取りがどう進むのか、今暫くは見ておく必要はありそうだ。

"颯爽と前を進むハルウララ!やはり大逃げの様子ですが、いや驚きましたね?"
"そうですね。ハルウララのフットワークを警戒していたレーサーは虚を突かれたんじゃないですか?しかしハルウララ自身にも初の試みですからね。このレースがどうなるかは、まだまだわかりませんよ?"

第2コーナーまでは動きが無かった。だが、先団の動きが重い。まるで水の中を泳いでいるようだ。全てが裏目となった事前準備に加え、逃げを打つハルウララ相手に戸惑いながら走るという事が、負の連鎖を招いているのだろう。目の前にいる彼女を考える時、以前の能天気で良いところの無い彼女の顔がどうしたって脳裏をよぎる。それが思考の邪魔をして、正しい判断が出来なくなってしまうのだ。

「重い!チクショー蹄鉄変えるんじゃなかった!」

ウララに張り付いた生徒が、早くも脚に来たと見え、ズルズルと後退していく。想定外が複数重なった上に、あのスピードに付き合わされたのだから無理もない。まるでメッキが剥がされるようだ。

ウララがストレートに入っていく。

スピードは──

(──落ちない!?)

"会場のざわつきは止まらない!ハルウララが大逃げで先頭をキープ!集団との差は開く一方!その集団はやや縦長。最後尾にはギガレンジャー、虎視眈々と何かを狙っている様子です!"
"皆、ウララがペースダウンするのを待ち構えているかのようですが、様子見は吉と出るでしょうか?何しろ初見となるウララの大逃げですからね。これは仕掛けどころが難しいレースになりそうですよ?"

信じられなかった。ハルウララのスピードは一切緩む事はなく、先頭を突き進んでいく。先行組はウララの様子を見るように走ってはいるが、ウララが下がった場合に備えてのポジション争いが熾烈になってきた。第3コーナーを良い位置で侵入しようと思ったら、今動いていない生徒は既に負けている事になるだろう。

ストレートを中程まで進み、観客席が近づいてきた時。私は揺れる視界の隅に、中央の3人の姿を見つけた。

(何──?)

アキツテイオーが、松葉杖を放してウララに声を送っていた。

(──芝居か!?)

やられた。
完全にハメられた。

全てが仕組まれた事なんだ。突然始まり突然終わったあのレースも、これ見よがしに晒したウララのフットワークも、全てが布石。この大逃げを成功させる為のブラフだったのだ。
なんという大胆で残忍な作戦だろう。手の内を余すところなく晒したかと思えば、対極の作戦に打っ出るとは。今先団を作る生徒たちは、あのフットワークに翻弄され、熟考したあげく、誤った選択をしていったのだ。
おまけにアキツテイオーの転倒騒ぎ。その後にあった馬場の再調整と身体検査の時間も含めて、ウララの体力回復は問題なく行われてたに違いない。そもそも過密なトレーニングをこなしているという彼女の事だ。あの走りさえ、アップに過ぎなかったのかもしれない。その間に散々焦らされた私達は、集中力を奪われた挙句、自ら勝手に弱体化してしまったのだ。

恐ろしい。
なんてヤツらだ。大体、思いついたとしてもこの高知でそれをやるか?ライオンはウサギを捕える為にも全力を尽くすとは言うが、奴らのやり方はまるで地方喰いじゃないか。

だが進む。前へ行くしかない。

"奥から上がってきたぞギガレンジャーだ!ここからスパートをかけるのか!集団をかわすように今、外を狙います!"

私は大きく息を吸い、踏み込んだ。既にスタミナを使い尽くした何人かが、私に進路を譲るかのように下がってきた。
スパートの開始位置は正解ではないかもしれない。それを修正するにはどうすればいいか?
決まっている。
相手より速く走って勝つ。それだけだ。シンボリルドルフがどれだけ英雄視されようと、アキツテイオーが知略巧者だろうと、クインナルビーが老練狡猾なトレーナーであろうと、このレースにはある一つの事実がある。

ハルウララだけがこのレースを走っているのではない。ハルウララだけがウマ娘ではない。
ここにいる全員がウマ娘だ。
私だって、ウマ娘なんだ。

"さあハルウララが第4コーナーを抜けようとしているぞ!後続は間に合うのか!ギガレンジャーのスピードが更に上がる!見る見る内に差が詰まる!遅れて3馬身、今第4コーナーを抜けたのはミニミニメイフェア!ギガレンジャーも外から飛び出した!も......んの凄い末脚だ!しかしハルウララが伸びていく!グングン、グングン伸びていく!"

私だって──

"ハルウララ逃げる!ハルウララが逃げる!さあ追うのは3人だ!後続の順位は入れ替わって再びスターライトビートが現在2位!ミニミニメイフェアがその横!ギガレンジャーが外から前に回った!まるで弾丸!果たして届くのかどうか!?"

私だって──

"残り150m!さあいよいよか!今日がその日なのか!追い詰めるギガレンジャー!しかしハルウララが伸びる!信じられないまだ伸びる!いよいよか!ギガレンジャーが大外1馬身まで迫っている!しかしゴールはもう目の前だ!"
"会場中から大ウララコールが巻き起こっています!これはひょっとするとひょっとしますよ!?"

ウマ娘なんだ──

"さあ今!初の白星に向かってハルウララ!勝利の女神からの初キッスを──"

 
ウマ娘なんだ。

私は、ウマ娘なんだ。
 

"──捕まった!捕まった!アタマ1つ抑え込まれて捕まりましたハルウララ!"
 

私は、ウマ娘なんだ。
 

"ハルウララの初勝利目前!ギガレンジャーが爪一本でその栄光から引き剥がした!勝ったのはギガレンジャー!驚きましたまさかの末脚!凄まじいスタミナ!勝者1番ギガレンジャー!"

後のことは、覚えていない。
その時の私はただ、自分の息遣いに耳を澄ませていた。
脚の回転に身を任せて、真正面から受け止める風を感じていた。
どこか遠いところで、誰かが私の名前を呼んでいる気がした。
しかし私はそれに振り向く事なく走り続け──その後の事は、もう何も覚えていない。

[newpage]

気づくと、私は医務室に寝かされていた。一目で栄養剤と分かる点滴が私の腕に繋がれていた。驚いて身を起こそうとしたが、出来なかった。首だけを捻って外を見ると、既に日は落ち、夜になっていた。

「気がついたのね、姉さん」

声の聞こえた方を見ると、部屋の隅に妹が座っていた。その隣には、先生が立っている。

「私、どうしたの?」

私は妹に聞いた。妹は大きく頷くと、ベッドの側まで走り寄ってきた。
「おめでとう。レースは姉さんが勝ったんだよ」
「勝った?私が?」
この有様で?
そう言おうとしたのだが、妹の言葉に阻まれた。
「そうだよ。後で録画みたら姉さんも驚くと思う。凄い追い込みだったもん。もう少しでレコードだったんだよ」
妹は、ベッドの手摺りを掴みつつ、興奮したようにそう言った。

妹の話によると、ゴール後の私は興奮状態が抜けず、その後第三コーナーまで全力疾走を続けた後、突然倒れたのだという。
ゴールした事も、勝ったかどうかさえ私は覚えていなかったが、そう聞かされると、私の今の状態に納得は出来た。右足の痛みは肉離れだろうか。暫くは休養するしかないだろう。

「今、何時?」
「9時くらいかな。レースもライブももう終わっちゃった。アマの大会じゃライブなんかなかったから、姉さん、残念だったよね」

私はぼんやりと頷き、そのまま右手に繋がれた点滴を見つめた。
ウィニングライブには誰が出たんだろう。ハルウララと、3位の娘だけで進行したのだろうか。私がこの様になっていなかったら、私はライブに出ていたのだろうか。今までライブの練習などした事などなかったはずだが、確かに私は、今、残念だという気持ちを抱えていた。

「先生」

私は、妹の手を借りて体を起こし、先生の方を見た。
「私の走りはどうでしたか」
先生は私を優しく見つめ、言った。
「おめでとうギガレンジャー。素晴らしい走りだったわ」
「だけど私は......ハルウララを無視できませんでした」
「でしょうね。あなたを見ていて、多分そうだと思ってた」
「私はハルウララには勝ったけど、無心にはなれませんでした」
「そうね。だけど、それは後悔や反省なのかしら?」
「今、変な気持ちなんです。勝った気がしないんです。ハルウララは、もっともっと強かったです」
気づけば、私は泣いていた。
ハルウララを追い抜いた時の記憶が無い事が、私の胸の真ん中に大きな穴を開けていた。私が抜き去った瞬間、彼女はどんな顔をしていたのだろう。ゴールする直前の彼女の走りは、どんな風だったんだろう。それらの記憶が無い事を、私はひたすらに悔いた。もう一度彼女とレースがしたい。私はそう強く願ってやまなかった。

だから、私は言った。

「先生。私──もうアマの大会には出ません。ここで頑張ってから、私は中央に行きます。もう一度ハルウララと闘って、納得出来る勝ち方をしたい」

私がキッパリとそう言うと、先生は深くため息を吐き、言った。
「そうなるんじゃないかと思ってたわ」
そして苦笑を浮かべながら、先生は続けた。
「ハルウララには魔力があった。ファンだけでなく、相手を惹きつけてやまない、そんな魔力。あなたがレーサーとして成長していく中でそれはとても有意義なものであるけれど、あなた自身さえ変えてしまう。あなた達の最終的な目標を知る者としては、ハルウララとの関わりは、正直、悩みどころでもあった」
先生は続けた。妹が私の手を握ってくれていたので、涙はいつのまにか止まっていた。
「私はあなたや、あなた達の生き方を否定はしない。タイトルが花だとしたら、あなた達は実を取りに行っただけ。処世術としては悪くない。でもね、そのやり方では必ず行き詰まる。何というか、行けるところまでしか行けない、そんなウマ娘になる。私はあなたに、ウマ娘の世界はもっと広く、深いものなんだと知って欲しかったの。あなたはいつか、私が手に入れられなかった勝利を手にするウマ娘になれる......そう思っていたんだもの」
先生はベッドに近づき、私の足元に腰を下ろすと、私たちを見つめた。
「今回の話が来た時、私はこれを、あなたの卒業試験にしようと思ったのよ、レンジャー」
「卒業......試験?」
「そう。私の目からすれば、あなたはハルウララよりも明らかに強いウマ娘だった。だから、どれだけ迷わされたとしても、最後に勝つのはあなたの方だろうとは思っていた。でもね、さっきも言ったけど、あなたがハルウララの魔力が及ばない程の白星を上げたとしたら、あなたはいつか、私と同じ轍を踏む。そう考えた私は、わざとあなたにあんな言い方をしたの」
私は頷き、あの時の事を思い出した。なる程、あれだけ言われてしまえば逆に意識せざるを得ない。
「ごめんなさいね。傷ついたわよね。あんな言い方しか出来なかった私は、きっと悪い先生よね」
私は首を振った。皇帝塾の門弟で本当によかったのだと、心の底からそう思った。
私が涙を指で拭っていると、今度は妹が言った。
「姉さん、私も姉さんについて行くよ。私も中央に連れて行って?お願いだから」
「エルフ......アンタは此処に残りなよ。私よりも早く鏑矢銀行に行かなくちゃ」
私はそう諭したのだが、妹は頭を振った。
「嫌よ。私は姉さんと離れたくないもの。姉さんのいない場所で過ごすのはもう嫌。ずっと一緒がいい」
珍しく駄々を捏ねる妹とのやりとりは暫く続いた。困り果てた私が助けを求めて先生を見ると、先生はいつのまにか、楽しそうに笑っていた。

「2人とも大丈夫よ。中央から鏑矢銀行に行ったウマ娘も沢山いるわよ。あそこの常務以下役員には、ウマ娘が多いから」

先生の言葉に、また涙が溢れた。

「よかったね、姉さん」

妹が、私を強く抱きしめた。

 

私達の目の前に、まだ道は続いている。しかしそれは、今までとは違う、全く新しい道になるのだろう。

明日からは、その道を歩いて行こうと思う。

妹と、また2人で。

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