初日、初回のトレーニング/有馬記念まであと1294日

絆創膏。
テーピングテープ。
アイシングボックス。
保水ドリンクと合わせるレモンタブレット。

「これでいいかな?」

ウララの授業が終わる少し前、私は待ち合わせ場所であるグランドの入り口で、今日のトレーニングに使いそうな道具を確認、点検していた。
「でも、どうしようかしら」
私はかなり前から、実のところ昨晩から私はその台詞を繰り返していた。何しろウララとのトレーニングは今日が初日。それを意識し過ぎたせいなのか、その初っ端のメニューが決めきれず、私はうんうんと唸っては、頭を悩ませていた。

とりあえず走る?いや走るのは当たり前だ。問題はどう走るかだ。鉛入りの蹄鉄もあるにはあるが、それはウララが使っているシューズのサイズを聞き忘れたから、今日の出番はないかもしれない。
では登坂コースで持久力UPを目指すか?それともゲート対策とスタートの攻略を意識して100mダッシュの反復をしてみようか。いやいやコーナーも重要だ......困った。埒が開かない。

「あ、ルビーさん!聞きましたよ、トレーナー活動再開だそうじゃないですか」
「こんなところで会うということは、今日が初日ですか?」

背後からの声に振り向くと、そこに立っていたのは、チームスピカの顧問である沖野トレーナーの姿があった。そして隣には、チームカノープスの顧問、南坂トレーナーの姿もある。私は2人に手を振ってから会釈した。
「あら、お二人さん。あなたたちもトレーニングの予定だったの?」
すると沖野は、南坂の方を指差しながらこう言ってきた。
「いやいや、トレーニングするのはコイツのとこだけ。自分は、なんかご意見番なんて役割を背負わされちゃって。あはは」
「あら、そうなの?」
南坂は頷いた。
「ええ、ツインターボさんの中長距離対策としてですね、大勢のステイヤーを抱える沖野さんのアドバイスをいただきたくて」
「あら、カノープスにもステイヤーはいるじゃないの?」
「それはそうなんですが......皆、並走練習は問題なく出来るのですが、自分の練習に一生懸命になりすぎて、じっくりと互いの走りを観察している時間が取れないんですよ。よく脱線もしてしまうしで」
「お前のところは、個性強いからなぁ」
「ええ。それに、スピカは優勝経験者が豊富ですからね。その目線からのご指導、期待してますよ」
「おいおい、俺ぁ別に大したコーチングなんかしてないぞ?」
「知ってます。だから、『期待してる』って言ったんですよ」
「それ期待してる奴が言うセリフじゃねーから!」
2人はそう言って笑った。トレーナーとしてのデビューが近いせいか、2人とも旧知の同級生であるかのような雰囲気を醸し出している。そんなリラックスした関係を見て、私もいつの間にか笑っていた。

「ところで、今回のルビーさんの秘蔵っ子って、誰なんだい?」

ポケットから取り出した新しいキャンディの紙包を解きながら、沖野がそう言った。そこで私は、視界の先に姿を現し始めたウララを指差し、返答した。

「アレが、ウチのドラフト一位よ」

ウララもまた私の姿を見つけたようで、歩きながら大きくこちらに手を振っている。その隣には、同じくらいの背格好をした青い髪の生徒があるいていた。おそらくツインターボだろう。
「なんと、ハルウララか!こいつはまた、なんというか、賭けに出ましたね」
沖野はまるで感心したようにそう言っているが、その眉毛が妙な形に曲がっているところを見ると、驚きというより、不思議と思っているのかもしれない。しかし私は気にしなかった。

「あの娘には『何か』があるんじゃないか──」

ウララの事を一度はそう考えながら眺めたトレーナーは多いだろうが、今もそう思っているトレーナーは少ないかもしれない。しかし沖野自身は、ウララに対しまだ多少の興味を残していたのだろう。奇妙とは思いながらも、ウララの顔と名前を覚えていた事は、その何よりの証拠である。

その『何か』は、私が必ず開花させてみせる──いつの間にか、私は拳を握っていた。

「ターボさん、ウララさん!こちらですよ!」

南坂が2人に向かってそう呼びかけると、2人はまるで競争するかのように並んで駆け出してきた。
「いっちばーん!」
勝ち名乗りを上げながら、南坂の胸に飛び込んでいったのはツインターボである。青いツインテールが風に舞い上がって、彼女の背中にゆっくりと落ちた。
「にっばーん!」
ウララもまた満面の笑みを浮かべながら私の近くまでやってきた。同じ中等部というのが幸いしたのだろう。ツインターボとは既に良い友達となっているようだ。
「お!ウララ!トレーナーまでウマ娘だったのか!知らなかったぞ!」
ツインターボはそう言って、耳をぴょこぴょこと動かしながら、興味深げに私の顔を覗き込んできた。
「ふぅん、手強そうだな!でも!ウララはターボが倒す!絶対だぞ!」
ツインターボは私を指差すと、元気よく戦線布告してきた。
「こらこら、自己紹介もまだですよ?」
「いいえ、いいのよ」私は穏やかにターボを嗜める南坂を制した。「彼女の事は知ってるしね。あなたはツインターボね?私はクインナルビーよ。噂には聞いているわ。私のことは、ルビーって呼んでね」
「その噂だけがターボの正体じゃないぞ?ターボの本気は噂よりもずーっと凄いし、速いんだもん!」
ターボはそう言って腕組みをし、胸を張った。面白い娘だ。私も腕組みを真似て、ターボに言い返してみる。
「ウチのウララも負けてないわよ?いつかレース場で会ったら、いい勝負をしましょうね」
その時、私のジャージがグンと引っ張られて振り向くと、ウララが握り拳を振り上げて、ツインターボを指差していた。
「いつかじゃなくて、今やろうよ、トレーナー!」
「え、今?」
「わたし、ターボちゃんとグランドで走りたい!今度は負けないよ!」
「臨むところだ!やるか、ウララ?」
「やろう!」
そう言いながら早くも火花を散らす2人であったが、うーむ、と唸りながら頭を掻いたのは沖野である。
「だって。どうする?」
クルクルとキャンディの棒を唇でもて遊びながら、沖野は南坂を見た。
「いいんじゃないですか。ようは勝敗を決める要素があればいいんですから」
「でも、ターボは芝が得意だし、ウララが得意なのはダートだろ?そこら辺はよく考えないと、勝負にはならないんじゃないか?」
そして今度は私を見る。「ルビーさん、どう思いますか?」
沖野の主張はもっともだ。しかし練習としてのみを考えれば、芝を走る事もダートを走る事も、その得手不得手に関わらずよくある事ではある。そこに問題はないのだが、勝ち負けが関わるとなると難しい。

さあどうしよう。
そう思った時だった。

「その審判はアタシの仕事だぁー!」
「ぐはぁ!」

突如、そんな声が聞こえてきたかと思うと、沖野の姿が目の前から忽然と消え、その代わりに1人のウマ娘が姿を表した。

「さっんっばーん!と、きたもんだコレが!」

芦毛ロングのストレートをかきあげながら、ゴールドシップはその場にすっくと立ち上がった。
追い込み走法を得意とする本格ステイヤーで、トリッキーな試合運びでもファンを熱狂させているG1レーサーの1人だ。その一方、プライベートでは奇行や流言が絶えず、ファンはもちろん生徒会当局まで、あらゆる方面を常に騒がせている事でも有名だ。

「審判やらせりゃ天下一!このゴルシ様が来たからには、プロレスでもセパタクローでもなんでも来い!だっ!ぜっ!yeah!」
ゴールドシップはそう言いながら、その長身とリーチを活かした実に見事なフリッカージャブのシャドーをその場で披露して見せた。いやはや、言ってる事とやってる事と考えている事が、これほど合致していない振る舞いというものにもなかなか出会えないだろう。だがこの破天荒さ、常識では測れないこの思考の奥深さこそが、ゴールドシップの魅力なのである。
「相変わらずお前は突然だなぁ......」
沖野がそう言いながら立ち上がった。見たところ無事である。確かゴールドシップが沖野を弾き飛ばした時、かなりいい角度のドロップキックが側頭部にヒットしていたような気がするが、気のせいだったのだろう。そうでなければ沖野の正体は不死身のサイボーグということになってしまう。
「申し出はありがたいけど、お前がわざわざやるまでもないだろう?こっちはトレーナーが3人いるんだ。俺が審判をやればいいじゃないか」
そう説明する沖野であったが、ゴールドシップは立てた人差し指を左右に振ると、こう言った。
「あめぇーぜ、トレーナーよぉ。南坂っちは、おめぇーの意見が聞きたくて頼んでんじゃねぇーか。審判なんかやってるより、観察に集中してやんな!」
「そ、それは......まあ、確かにそうだな」
思わぬ正論に狼狽える沖野が、なんだか微笑ましく見える。ターボとウララも同じように感じてい、りのか、顔を見合わせては笑っていた。
「なっ?だから、ここゴルシちゃんにお任せ!あとは大船に乗ったらイマナミさんに出会ったつもりで!どーん、と!構えてりゃいいんだよ!」
「誰なんだそれは」
「ほら、ローマ7賢人の1人!イマニウス・ナミトゥス!ウマ娘の神様!知ってんだろ?」
「ったく、神様の名前を略すな!このバチあたりが!」
まるで漫才のようなそのやりとりに、私たちは終始笑い合った。

「で、どうするよ?」
ひとしきり笑い合った後、沖野が再び悩み始めた。だが一方の南坂にそんな様子はない。
「持久力のアップって言ってたじゃないですか。ダートを走るのはターボさんもやぶさかではないですよ」
「じゃあ、なおさらどうすんだよ?」
「そうですね......」
南坂はターボとウララ、そしてコースを眺めた後、視線を私たちに移して言った。
「こんなのはどうでしょう」

「──マラソン?」

南坂の提案は、実にオーソドックスでありながら、ことウマ娘の界隈では意外なものであった。
「そうです。このグランドには内側にダート、外側に芝のコースがあります。それぞれを連続で走るんです」
「それぞれ何メートルあるんだっけ?」
「内側のダートが1600。外側の芝が1800」
「うひゃあ、それぞれで3400かよ?アタシでも滅多にやらねーぞ?」
ゴールドシップが思わず目を丸くする。南坂は、芝とダート、そのコースの境目を遠く指差した。
「あの辺りのフェンスは、蝶番が付いているので、開ける事ができるんですよ。あそこをスタート、コース切り替え地点、及びゴールとしたらどうでしょう?」
南坂の指先の向こう側、二つのコースの全貌を目で追ったのだろう。ターボとウララはポカンと口を開けて、顔を見合わせた。
「3400mだって。どうする?」
「すっごく長いってことだよね?」
2人とも、さっきまでの勢いは何処へやら。今は神妙な顔つきでコースを眺めている。無理もない。3400mという距離は、重賞と呼ばれるレースでも滅多にない。互いに、未知の距離だ。
だが南坂は、そんな2人にさらに追い討ちをかけた。
「いやいや......2人とも、マラソンって言ったじゃないですか。芝、ダート、芝、ダート、芝、ダートの順で、10200mですよ」
「い、いちまん!?」
「授業の10倍!?」
「かぁー!一万円貰ってもやりたくねぇ!」
2人の声が今度は完全に裏返った。その隣では何故かゴールドシップまでもが青ざめている。マラソンと聞いた割には3400mでは短いなと思っていた私も、これには少々驚いた。我々ウマ娘が参加するウマ娘競技において、3500mを越えるレースは殆ど存在しないからである。

ウマ娘族が持つ身体能力は、人間族の持つそれよりも総じて高い。あまたの歴史の中で数多く生み出され、今日まで受け継がれてきた殆どのウマ娘競技は、特にその能力の中でも優れた瞬発力を如何なく発揮出来るようにルールが開発、設定されてきた。よって、その規定距離は一様に短い。日本URAが定めるレース基準も同様で、短くて1000m、長い物でも3000〜3200m前後という距離で行われるのが一般的だ。また、ウマ娘競技の発展が人間族のショービジネス界と密接に関わっていた事も、その背景にはあるかもしれない。一回の開催で行われるレースの数が多ければ多いほど、客が入りやすかったのだろう。時間がかかる長距離走は、次第に敬遠され、今ではすっかり淘汰されてしまったように見える。今の日本の現役世代においては、3500m以上の長距離をジョギング以外の目的で走るウマ娘はほぼいないと言ってもいいだろう。
世界的に見れば、極めて少ないものの、それ以上の距離を走るG1レースも存在する。またエンデューロ競技というスポーツもあるにはあるが、あの競技の主旨は「日の出から日の入りまでの時間でどれだけの移動ができるか」というものであり、タイムを競うトラック競技ではない。一般路や、森林、砂漠、荒野など様々なシチュエーションを含む地域で行われ、そのコース取りや休憩時間、悪天候の回避、栄養補給のテクニックまで問われ、審査される総合スポーツである。
その他といえば、特異的なものとして北海道の帯広トレセンが運営しているばんえい競技というものがある。重量1トンを超える競技ソリを引きながらダートの直線コースを走る物で、コース上には障害物としての急坂があるのが特徴だ。こちらはタイムを競うものなのだが、力比べ、あるいは力自慢という側面も大きく、またレースの展開は非常に遅い物であり、ここ中央の形式とは全く別の物だ。

「ターボちゃん、やってみようよ」
困り果てた様子で座り込んでいたツインターボは、ウララのその声を聞いて、驚いたように聞き返した。
「ウララ、本気か?いちまんメートルだぞ?授業の10倍だぞ?」
「うん。そうだけど。でも10倍ってことは、授業の10分の1のスピードで走れば、走り切れるかもしれないよ?」
ウララのそんな言葉に、その場にいたトレーナー全員が拍手した。
「なるほど。いい理論だ」
沖野が大きく頷き、ウララの意見を支持した。私と南坂も同意した。
しかしターボは、それでもまだ立ちあがろうとしない。
「でも、いちまんっていえば、10kmだぞ?そんな距離、ウララだって、そんな距離は歩いた事もないんじゃないのか?」
ウララはうーん、と考えてから、不安気な顔つきで私を見上げ、聞いてきた。
「トレーナー、10kmって、例えばどれくらいの距離?ここから新宿とかまでいっちゃう?」
私は笑って答えた。
「そんなにいかないわよ?府中の西の端っこから東の端っこくらいまでかしら?」
「そうですね。ここのトレセンから駅までが2キロも無いくらいですからね」
するとウララは、顔をパッと明るくさせると、再びターボに向き直った。
「だったら私、走ったこと、あるよ!」
「本当か!?お前すごいな!」
「うん。わたしが高知にいるときはね、高知トレセンとわたしのお家がね、すっごく離れてたの。私、毎日歩いて通ってたし、時々走ったりも、したよ!前に府中駅まで歩いた時に、ああ、高知のお家の方が5倍は遠いなあって思ってたから、多分それくらいなんだよ!ターボちゃんだって歩けるし、走ろうと思えば走れるんだよ!」
ウララの話を聞いて、ターボが抱えた距離のイメージが変わったのだろう。唇を引き締め、キリリと眉毛を持ち上げると、立ち上がった。
「よーし、やるぞー!ウララに出来るなら、ターボにも出来る!」
「そうだよ!やってみようよ!やってみないとわかんないよ!」
2人はそれからもやるぞ、やるぞと繰り返し、互いを鼓舞していた。
「よーし、やると決まったらアップしなきゃだな。ストレッチを充分にやって、じっくり脚を伸ばしておこう。ゴルシ、付き合ってくれ」
「わかった!お前ら、このゴルシちゃんが手本になるから、よーく見て真似するんだぞ!」

いっち、に!
さんっ、し!

沖野とゴールドシップ、そしてターボとウララが声と動きを合わせながら、ストレッチを繰り返す。その様子を、少し離れたところから私と南坂は見ていた。
「10分の1のスピードで10倍の距離、か」
「まあ、単純にそういう事にはならないんだけどね」
私と南坂は、あの2人に気づかれないよう、チラリと視線を交わすと、互いに苦笑した。
「でもいいの?ターボのトレーニングが、ウララとこんな事になっちゃって」
私は少し心配になっていた事を南坂に打ち明けた。だが南坂は、明るく笑って私に答えた。
「いいんです。今のターボさんに必要なのは、諦めない気持ちなんです。ウララさんは、その練習相手としては最適だと思いますよ」
「そうなの?」
「えう。今だってそうですよ。結果はどうあれ、まずはやってみるという気持ち。そしてやり続けて、やり遂げる気持ち。今のターボさんは、それが必要なんです。最近になるまでわからなかったのですが、彼女は性格的に保守的な一面があるんです」
「それは意外ね。あの大逃げのスタイルが、そんな性格から作り出されたようには見えないけど」
「もしかしたら彼女は、あのスタイルを消去法で選んだのではないかと、私は思うんです。アレは出来ない、アレは不得意だ。だから逃げて逃げて逃げまくる。私は逃げが悪いとは全く思いません。しかしそれでも、挑戦する意識は持ち続ける必要はあるんです」
そう言いながらターボを見つめる南坂の目は、私たちの目の前に広がるコースよりも、遥かに遠くを見ているような気がした。

この勝負、この2人にとっては良い根性試しになるだろう。

いつの間にか私もまた、南坂と同じ方向を見つめていた。








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