Gateway weapon/高知遠征11日目

その後というもの、私たちの昼間の時間は密度が大きく増した。早朝からランニングと太極拳、朝食を済ませたらダンス、ゲート練習、ダンス、並走とこなし、その後昼食まで200mダッシュか、泳ぐかの2択が午前のメニュー。午後になって日差しが強ければ更に泳ぎ、日差しが気にならないとなればサーキットトレーニングとダンス、ゲート練習。夕暮れ刻に風呂を済ませて汗を流した後は、入念にストレッチとマッサージを繰り返して夕食を待つ。この超過密スケジュールがウララの日課になった。

「今日の、勝利の女神は......」

眠気と疲労がそうさせるのだろう私の掌に揺らされながら、ウララの口からまるで寝言のようにウマぴょい伝説のフレーズが漏れる。私は微笑むと同時に、今自分がウララに強いているトレーニングの過酷さを思い知らされたが、思わず口から出そうになる憐れみの言葉をぐっと飲み込んだ。

「おい、今日のゲート練習はずいぶんといい結果になりそうだ。見ろよこのタイムの縮み方!テンの3ハロンに相当......影響する......すまん、寝ていたのか」

そう言いながら、記録紙を手にしながら部屋に飛び込んで来たのはテイオーだ。しかし、ついに本当に寝てしまったウララの姿を見ると、バツが悪そうに頭を掻いた。
「いいのよ」
私は、テイオーの手の中にあるその記録紙をチラリと見て、そこに書いてある内容と、その記録の元になった昼間のウララの走りを思い出していた。


ゲート練習とダッシュが功を奏したのだろう。ウララのスタートのキレはかなり増した。スタートのコツはゲートの中で一歩下がり、ほんの僅かの加速スペースを設けること。さらに重要となるのが、脱力と落下を利用した体重移動。そうする事によって、リラックスさせた前足をバネのように使い、躰をゲートの中に置きながらにして加速を始める事が出来るのだ。私の得意とする、カンフーを始めとした格闘技の応用である。

「よーし、もう一本!」

顎から落ちる汗を拭いながら、ウララがは今自分が潜り抜けて来たゲートを見つめ、歩を戻した。

(伸び代しか感じないのは、それだけハルウララのレベルが低いから)

そんな陰口が今でもネットを飛び回っているが、私はこの時計を見ても同じことが言えるのか、と、ストップウォッチを彼らの眼球に押し付けてやりたくなる。教えれば教えただけ吸収し、想像を超えた結果を出してくるのが当時のウララの常だった。
「調子がいいな」
そんなウララを見ながら、その日の記録係りを務めていたテイオーが満足そうに笑みを浮かべた。
「隣に入ってもいいか?」
私は一も二もなく頷いた。
「もちろん」
「よし。ルドルフ、少し代わってくれ。おーい!ウララ!今度はアタシが相手だ!」
既にゲートに収まろうとしていたウララの尻尾が、私の位置からでも分かるくらいに飛び跳ねた。ルドルフとの並走も喜んではいたが、いざ相手がテイオーとなると、やはり想いは特別なのだろう。

「羨ましくなるような光景だな、ルビー君」

テイオーに代わって私の隣に立ったルドルフが、今までの記録に目を落としながらそう言った。
「あれだけの信頼を得てるのもそうだが、テイオーは常にそれに響くように答えている。あの器の大きさには、全く驚かされるよ」
「彼女、意外とトレーナーに向いているのかも知れませんね」
「そうだな。しかしウララ意外のウマ娘をパートナーにしている光景は、ちょっと想像出来ないぞ?」
「確かに。それは言えてますね」
私はゲートの開放スイッチをルドルフに手渡した。
「お願いしてもいいですか?私のタイミングでは、そろそろ読まれそうなので」
ゲート練習に使う仮ゲートは、リモコンで遠隔操作出来る。ルドルフはそのスイッチを後ろ手に隠すと、私を見ながら頷いた。私は2人に合図を送り、テイオーとウララからの返事を待つ。双方の準備が完了した事を確認した後、私はもう一度ルドルフを見た。
「それでは......!レース......!スタート!」
慎重にタイミングを探り、そうルドルフがリモコンのボタンを押すと、遠目にも分かる程に勢いよくゲートが開いた。仮と名付けられているが、電磁石を利用したゲートの動きにタイムラグはない。私もまた、ウララが新しい記録を刻んでくれる事を期待しつつ、ストップウォッチを握り込んだ。

「......おや?」

しかし、2人は動かなかった。単に出遅れているのではない。開いたゲートに反応もせず、互いに足元の方を指差しながら、盛んに何かを話しているようだった。
「どうしたんでしょう?」
「さあ?わからないな」
私はストップウォッチをリセットし、2人の様子を眺めた。
暫くすると、テイオーが「タイム」のハンドサインを送ってきた。それから激しく手招きを繰り返すので、私とルドルフは首を傾げながら2人の待つゲートへと向かった。

「おいトレーナー!ウララのシューズが『スティールハート』じゃないぞ!?どうなってるんだ?」

テイオーは近くに寄った私を見るなり、ウララの足元を指差してそう叫んだ。
「え?何の事?」
私にしてみれば、話をより具体的にしてもらえないかと思っただけなのだが、私がそう聞き返すと、テイオーは驚きを通り越して、呆れたように言うのだった。
「何の事って──お前、ウララの専属トレーナーのクセに知らないのか!?アタシとウララが使っている『政宗マークII』は、今では『スティールハート』か、そのシリーズのシューズじゃないと使えない筈だぞ?なのに何でウララは今政宗を履けてるんだ?」
私はウララの足元を改めて見つめた。そこには普段からウララが愛用している、見慣れたシューズがあるばかりだ。ウララ本人が高知時代から使用していたもので、出処は確か近所のお姉さんからもらったお下がりだったと聞いている。シリーズの銘柄は不明だが、確かにテイオーの言う通り、スティールハートシリーズではない。
「まあ......言われてみれば確かにそうだけど」
私は腕組みしながらそう言った。蹄鉄の装着や手入れについては、普段からウララに任せていたので考えた事もなかったが、改めて指摘されてしまうと確かに不思議ではある。
「ウララ、ちょっとそれを脱いでみなさい」
「え?うん。いいよ?」
私が促すと、ウララは素直に右足のシューズを外し、手に持った。私とテイオーが同時にそれに顔を寄せ、ルドルフはその後ろから覗き込んだ。

「ああ......加工痕があるな......」

片目を瞑りながら何度も靴底を裏返していたテイオーの口からそんな言葉が漏れた。
「かこうこん?」
「ほら、見えるか?ここだ。どの蹄鉄シューズもそうなんだけど、蹄鉄シューズの靴底には蹄鉄を取り付ける為の穴があるだろう?このシューズはそもそも政宗を取り付けられない。穴の数が違うんだ。でも、ウララのシューズはその穴を増やしてあるみたいなんだよ。後から政宗を取り付けられるように改造したヤツがいるって事だな。あ、ここにもある」
謎を解明し、1人納得した様子でテイオーがそう言うと、今度はルドルフが眉間に皺を寄せた。
「あまり、いい状況ではないな。靴底を加工するとシューズの剛性が落ちる。少なからず脚力のロスになってる筈だ」
私たちの顔が徐々に深刻になっていくのを感じたのだろう。上目遣いに私たちを見るウララは、少し申し訳なさそうに言った。
「それね、多分、わたしのお父さんがやってくれたの。わたしがね、政宗マークIIが欲しい、政宗マークIIが履きたいってずーっとおねだりしてたからね、その時に開けてくれたんだと思う」
「そうか......なんとも殊勝なお父上だ」
私たちはもう一度シューズに目を落とした。父の親心ここにあり、という訳だ。
「なるほど。謎は解けた。しかしどうだろう?この剛性を欠いた状況では、マークIIの性能を引き出すどころか、ウララの走りは相当にパワーダウンしている可能性があるぞ?」
ルドルフはそう言うと、その掌を足に見立て、交互に動かしてはシューズの持つ剛性の重要さを力説し始めた。ルドルフの言う通り、確かに剛性の落ちたシューズを使い続けることは相当なハンデになる。しかし......
「しかし、新しいシューズを今から用意して足に慣らす時間があるかというと──」
私はそこまで言ってから口を結んだ。それは無理だ。よく慣れたシューズでなくては、いくら蹄鉄が良くても脚を壊してしまいかねない。
「確かに慣れたシューズに間違いは起こらない。が、コレは大分年季が入ってる。改造の有無以前に、経年疲労でソールがヨレヨレじゃないか。高知から帰ったら、すぐに新しいシューズ探しをした方がいいぞ?まあ、とはいえ......今はコイツで、頑張るしかないか......」
テイオーもまた、悩ましげに眉尻を下げながら、さりとて取るべき手段も無いと見たのか、励ますようにウララの背中を強く叩いた。

すると、今度はルドルフが私の肩を叩いた。

「ウララ、少し待っていなさい。トレーナー、ツールバックにハサミは入っているかな?キッチン鋏のような、握りの大きくて頑丈なものがあると助かる」

その思いがけない質問に私は虚を突かれたが、ルドルフの表情に迷いはなかった。どうやら何か思いついたらしい。
「あるわ」
「わかった。私は一旦部屋に戻るから、木陰で休憩していたまえ」
ルドルフはそれだけ言うと、小走りでトレセンの寮へと向かってしまった。とり残されて手持ち無沙汰になった私たちは、ルドルフの指示通りに木陰へと移り、保水やストレッチを繰り返して彼女の帰還を待った。

数分後。

「すまない。バッグに入れた筈だと思ってはいたんだが、探すのに手間取ってね。コレを持ってきた」

姿を消した時と同じように、また小走りでルドルフが再び姿を見せると、その手には黒くて薄い板状のものが握られていた。
「あ、靴の中に敷くやつだ!」
それを見つけたウララが、少し驚いたような声を上げた。もちろんインソールそのものが珍しかった訳ではない。ルドルフの持ってきたそれというのが、カーボンを使用した最高級品だったからだ。
「本来ならこれは靴の剛性を上げる為のものではないが、コレを使って少し試したい事がある」
そう言いながらルドルフはウララの前に腰を屈めると、自前と思わしきツールバックを開き、治具を使ってウララの蹄鉄を外し始めた。そして鋏を私から受け取ると、ルドルフは靴の幅と蹄鉄の取り付け位置を慎重に確認しながら、持ってきたカーボンのインソールに刃を立てた。
「お、おい?いいのか?高いんだぞそれは?」
心配するような、驚いたようなテイオーの声にもルドルフは反応せず、切り落としたインソールの一片と靴底とを何度か照らし合わせては、やはり慎重に鋏を入れていった。
「今から、スタビライザーを作る」
「え?すらびたいざー?」
ウララが聴き慣れない言葉をたどたどしく繰り返すと、ルドルフは鋏を止め、今度は靴の内側を探るように手を入れながらウララに言った。
「さっきも言ったが、剛性の落ちたシューズは力のロスに繋がる。その分余計に力むから、怪我もしやすい。前に聴いたんだが、ウララは爪が割れやすいんじゃなかったか?それも多分これの所為だ。まあ、これだけが原因かというとそうではないだろうが、これを解決出来ればその心配は大分減る」
私は頷くと同時に驚いた。ウララの爪は確かに割れやすい。しかし、それを私がルドルフに伝えたことはあっただろうか?テイオーにさえ教えた覚えはなかった。誰からかその情報を仕入れたのだろうが、全く、ルドルフの情報網の広さは計り知れないものがある。
私がそんな事を考えているうちに、ルドルフの握る鋏の先端がパチリと音を立て、動きを止めた。ルドルフの手の中には、緩いカーブを描いたの部品が数枚、出来上がっていた。
「これを靴底と蹄鉄の間に挟むんだ。そうだな......こう──横方向に組んでみよう」
今度は外した蹄鉄を摘むと、取り付け穴と蹄鉄の間にそのパーツを挟み、やはり慎重に釘で固定し始めた。

「よし、これでいい」

スタビライザーを取り付け終えると、ルドルフは更に余ったソールをウララのシューズに合うよう、小さく作り変えた。暫くその作業に集中していたルドルフだったが、全てを終えて其々を取り付け終えると、ウララにシューズを返した。即席とはいえ、その出来栄えには満足出来たのだろう。それまでの神事に身を捧げる刀鍛冶のよだった顔つきからは険しさが消え、今では柔和に微笑んでいる。
「ウララ、履いてみてどう?違和感はある?」
私はウララの表情を伺った。履き心地を確認するように、靴底を見たり、つま先でトントンと地面を叩きながら、ウララは答えた。
「うん。わかんない」
変化を感じない程、今までと感触が変わらないという意味だろうか。少なくとも、ルドルフはそう受け止めたのだろう。彼女はウララを再びゲートに向かわせた。

「ウララ!思いっきりやってみろ!きっとその方が違いがわかるぞ!」
「うん!やってみる!」

かくして練習は再開された。開放スイッチは再びテイオーが握った。私はその風景を視界にとらえてながら、ルドルフに頭を下げた。
「すみません。あんなに高いものを」
私がそう言うと、ルドルフは軽く笑いながら言った。
「気にすることはないさ。ウララにもそう伝えておきたまえ。アレは私が入学した頃に流行っていた、蹄鉄シューズのカスタマイズだよ。忘れかけていたが、手が覚えていてくれてよかったよ」

私がもう一度頭を下げようとした、その時だった。

ゲート開放のスイッチを操作した直後、テイオーが短く声を上げたかと思うと、同時にゲートに向かって走り出した。
「ウララが転倒した!」
私たちが聞くより早く、テイオーは走りながらそう叫んだ。慌ててゲートの方向を見れば、ウララの両足は宙に浮き、上半身は地面に突っ伏している。踏み出した瞬間に、顔から地面に突っ込んだに違いない。私は青くなった。

「大丈夫!?」

私とルドルフも即座に走り出した。ゲートまで来てみると、ウララ既に身を起こそうとしていた。その隣でテイオーが、ウララには目もくれず、彼女が入っていたゲート、その内側のダートの一部を見たまま、茫然と立ち尽くしていた。

ウララがスターティングポジションを作ったダートの上には、ぽっかりと丸い穴が開いていた。

「何だこれは?何が起こったんだ?」

テイオーはそう言いながら、穴とウララと、ウララのシューズとを何度も見返していた。実はその原因を察し、それでもなお、それを事実としては信じがたいのだろう。私には即座に察しが付いたが、シューズにスタビライザーを入れ、ソールをカーボンに変えるという、ほんの僅かな修正だったにもかかわらず、ウララのポテンシャルがコントロール不能の段階まで引き上げられた事は、やはり信じられなかった。
スタビライザーとソールに補強され、ロス無く100%の踏み込みを可能としたウララの脚力が、ダートに穴を開けたのである。
「やはり......とは思いこそすれ、これほどとはな。アグネスタキオンじゃないが、全く、ウララは興味の尽きないウマ娘だよ」
背を屈めたルドルフが、その穴に自らの拳を入れながら、感嘆の声を上げている。そして私とテイオーを見上げ、言った。
「レースの日まで、何が何でもこの力をコントロールするぞ。他の練習は二の次になっても構わない。とにかく全ての時間を注ぎ込むんだ」
「わかりました」
私は未だ穴から目を離せないまま言った。抉られた穴の淵は、スプーンでくり抜いたかのように綺麗だった。力が1箇所に集中した、何よりの証拠である。
「よし、走りにはどう活かすんだ?」
気持ちを新たにするかのように、テイオーが拳を掌に打ちつけた。ルドルフは、指を一本、二本と立てていき、ウララと私たちが取るべき行動を示し始めた。
「ストライドを大きく、かつ体勢を低く抑える。パワーの全てを前方への推進力に変換して、一気に突き放すスタイルを目指す。まずはそこからだ」
ルドルフが口にした突き放すというキーワードに誘われて、私は顔を上げた。テイオーも同じだった。その後に続く言葉はなかったが、私たち3人はこの時点でウララが参加する高知2戦目の作戦を、その場で決定した。

「すごい......初めて見た」

凄いと口に出しながらも、それが自らの行為よるものであるという事実には、ウララはまだ気づいてはいないようだった。


「よく寝てるな」

テイオーがベッドの上で横たわるウララを見下ろしながらそう言った。確かにウララは良く寝ていた。スタビライザーの一件からというもの、ゲート練習は日暮まで続いた。その合間にはそれを強く意識したサーキットトレーニングが挟み込まれ、ウララの記録はそれぞれを繰り返す度に伸びた。今まで意識せずにいた筋肉の動きを強くイメージしながらのトレーニングだ。肉体的にだけでなく、精神的にも強い疲労があったのだろう。
「急な方針転換にも迷いなく、よく着いてくる。大したものだよ。出会った頃はあんなに小さかったのに......本当に、根性の座ったいいウマ娘になったもんさ」
「まるでお父さんみたいな言い方ね」
「おい、それはよせよ」
テイオーは私の冗談に笑った後、少しだけ声のトーンを落とし、独り言のように呟いた。

「いつかきっと、いい思い出になる」

その言葉を聞いた時、私の手は止まった。「少し喋るが、続けてくれ」とテイオーが言った。
「アンタも知っているだろう?ウララの『レースの記録ノート』に書いてあるウララの日記の部分。全ての日付けがこの一文で結ばれているってことは」
私は頷いた。テイオーは続けた。
「いい思い出ってヤツも人それぞれだろうけど、ウララには他人から見てもそれとわかるくらいの、いい思い出にしてやりたいよ」
私はテイオーを見上げた。強い決意が双眸に宿っていた。
「ウララは、他の娘とは全然違うルートでここにいる。その違いを考えただけでも、羨ましく感じる生徒は多いと思う。未勝利にもかかわらず推薦を受け、奨学生として入学し、今はシンボリルドルフが直接的にサポートしている。でもね、ウララが言っているいい思い出っていうのは、そういう事じゃないと私は思うの」
私は再び手を動かしながら、言った。
「ウマ娘として生まれた自分の運命に、最後まで胸を張ったまま生きていたい。あの短いセンテンスには、そういう決意が込められているんじゃないかと、私は信じているわ。知ってる?あのノートには、ステップにあの痣を付けられた事も書いてある。そして、その日の最後の一文にも、その言葉があった」

あの痣

そう言っただけなのに、ドアの前に立つテイオーの気配が怒りで歪み、大きくなった。私はそれをそうと感じながらも、目線をウララに送ったまま続けた。
「私たちは、ウララの連敗記録を止める為に、此処でこうしているんじゃない。10年後か、20年後。ウララが自分の人生を振り返った時、この娘がいつでも、誰にでも胸を張っていられるような、そんなレース道を歩ませてあげたい。私はあのノートを初めて読んだ時から、そう思っているわ」

その後、暫く沈黙が続いたが、テイオーからの返事はなかった。両脚に両腕、更に腰周りのマッサージを終えた私もまた、手を止め、それ以上に続ける言葉もなく、その沈黙にただ浸っていた。


「食堂の準備が整ったよ。でも、持ってきたほうが良さそうだな」

暫くの間の沈黙の後、そのように伝えてテイオーが踵を返す気配がした。私がそれには及ばない、と言おうとした時、それを察したテイオーは私を短く制した。

「今更、振り向いてくれるなよ──こちとら、泣いているんだ」

私は遠ざかっていくテイオーの足音を聞きながら、ウララの寝顔を、ただ見つめ続けた。





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