商店街の風景/高地遠征七日目

「見たか」
「見た!」
「昨日の第六レース!」
「ああ、見たぞ!」
「やっぱり俺たちのウララちゃんは、やってくれると思ってたよ!」

その日、高知トレセン近くの商店街で八百屋を生業とする初老の男、的場の朝は多忙を極めた。青果市場での毎朝の仕入れが終わると、即座に荷を下ろし、倉庫へと走った。そして今度は母屋へ駆け込むと、昨日買ったばかりのパソコンの本体を店頭に配置する。重い筐体と大型のモニターを落とさぬように慎重に運び、思っていた以上に時間をかけてしまったため、開店時間の数分前となっても、店頭への品出しはまだ終わっていなかった。

「ちょっと母ちゃん!母ちゃんも、手伝ってくれよ!」

ねじり鉢巻をキリリと締め上げ、屋号の入った半纏を羽織った白髪頭の男性が、人差し指を真っすぐに伸ばした一本指打法でWi-Fiの設定に挑戦し、手間取っている姿はなかなか微笑ましい光景のはずであるが、母ちゃんと呼ばれた彼の伴侶は、苦渋に満ちた表情で彼を見下ろした。

「そんなもん、後にしたらどうだい?」

エプロン姿の彼女は腰に手を当て、まるで付き合いきれないといった様子で首をかしげている。所謂「大仏パーマ」のその髪型からは角が生えてきそうな気配だったが、店主の彼は全くそれを意に介さない。
「老眼で『えーびーしー』が見えねぇんだ」
「そんなもん知るかい。だから息子が起きてくるまで待てって言ったのに」
「あんなのに任せてられっか」
「......ちょっとアンタ!にんじんと大根の値札が間違ってるよ!」
「あぁ!?馬鹿野郎、そいつはウララちゃん凱旋記念の特価品だ!」
「このウマ娘バカ!こんなに安くしちゃって、どうやって『おまんま』食ってくんだい!」
「うるせぇ!断食でもしていやがれ!その間てめぇはその出っ張った腹、引っ込めてろ!」
早朝から激しい口撃戦を繰り広げる彼らであったが、これは毎朝の名物風景なので、他店の店主たちも、まばらに道を急ぐ通行人も、全くそれを気にする様子はない。だが、見慣れた八百屋の店頭におよそ似つかわしくないパソコンが置いてある事に気づくと、皆眉間に皺を寄せ、首を傾げるのだった。

「いよう、今日はいつにも増してド派手だね」

そう言いながら店の中に入ってきたのは、斜向かいにあるパン屋の店主、田原である。
「どうしたの、コレ」
田原はそう言いながら、手にしていた紙袋から菓子パンを一つ、的場に手渡した。まだ温かみの残っている、ケシの実がたくさん塗された、まん丸のアンパンだった。
「あ、奥さんはクリームね」
こちらの外見はというと、モコモコとして一回り大きく、まるで熊の手のようだ。
「相変わらずブサイクなパンだねぇ全く」
そう言われれば確かにそうなのだが、田原のパン屋は今どきには珍しい『見た目はともかく中身で直球勝負』をモットーとする店だ。なので、田原にとってそれは褒め言葉であり、またそう言った奥方にしてみても、やはり褒め言葉なのであった。
「で、なんなのコレは」
「何なのって、見ての通りだよ」
「いやコレがパソコンなのは俺にもわかるよ。だから、なんでパソコンが八百屋の店頭、しかもど真ん中の真正面に置いてあんのかって聞いてんの。いつもはホラ、ココの辺りは果物の指定席だろ」
すると的場は「実はな」と前置いてから説明を始めた。
「昨日、高知競馬場から帰ってきた後にさ、大急ぎで電気屋行って、買ってきたんだよ」
「だから、なんでよ?」
「ウララちゃんの昨日の走りっぷりをここで流して、みんなに見てもらうのさ!だから俺、『今すぐ持って帰れるヤツ出してくれ』って店員に言ったのよ。そしたら店員、『今ですと全て工場発送なので、この展示品を買って頂くしかありません』なんて言いやがる。思いっきり値切ってやったよ」
その説明を聞きながら、田原はうんうんと頷き、昨日のレースの光景を思い浮かべるよう、空を見上げた。
「第三コーナーからの飛び出しな。アレはゾクっとしたな」
「だろう?」
的場はそう言い、何故か自慢げに笑った。
「やっぱり俺たちのウララちゃんは、相変わらずの頑張り屋だぜ。今朝の市場も昨日のレースの話題で持ちきりさぁ。時々こうして帰って来て、レースに参加さえしてくれりゃ、俺たちは皆、前みたいに応援できるんだからよ。ありがてぇありがてぇ」
そして文字通りアンパンに噛みつき、食いちぎった。
「いや、相変わらずって事はないよ。あの走り見たら、前とは全然違うぞ」
どういう意味だと言いたげに、的場は田原の顔を覗き込んだ。口の中にはまだパンが入っているので、言葉を吐き出せずにいる。
その様子を見て、田原は言った。
「そりゃあ、前も一生懸命走ってたさ。でも、今の気迫からは比べ物にならないよ。勝ちたい気持ちにテクニックが追いついてきたっていう感じだな。中央のいいところをちゃんと吸収してきたんだってのが分かるよ」
田原がそう言い終えたのと同時に、的場はようやく咀嚼を終えて、大きく肩を上下させながら飲み下すと、少し呆れたような口調で言った。
「お前そういうとこ見るのだけは得意だよな。そういうとこばっかり見てる。もっとピュアに楽しめよ」
「俺の見方のどこが不純なんだよ」
「あのな──」
その時だった。的場が何かを言いかけた瞬間、一個のアボガドがシュートの軌道で飛んできて、的場の後頭部に命中した。
「いつまで無駄口叩いてるつもりだい!」
そして、キツイ罵声がその弾丸の後を追う。
「田原さんもホラ!お客さんがみえてるわよ!予約かなんかあるんじゃないの!?さあ行った行った!」
田原は思わず首をすくめる。そして床に蹲り、頭を押さえている的場に向かい、顔を寄せた。
「Wi-Fiに手間取ってるようなら、ウチのフリーWi-Fi使えばいいよ。パスワードはアルファベット小文字でtaharaだ。どうせ届くだろ」
そう言って踵を返すと、田原は店へと帰って行った。


店の方を振り返ってみると、なるほど確かに客が1人、入り口の前に立っている。
女性だった。麦わら帽子を目深に被り、スキニーのデニムパンツと、同じくショート丈のデニムベストを白いTシャツの上に羽織り、曲げた肘にトートバックがぶら下がっていた。
しかし通常の開店時間にはまだ間がある。確かに予約は数件入ってはいるが、それは開店してから受け渡すのが常だし、その時間を決めている訳でもないので、それらはまだオーブンの中だ。
その時、その客が麦わら帽子を手に取った。そしてそれを使って団扇のように顔を煽ぐと、彼女の頭の上に大きな栗毛の耳が伸びた。

(ああ、そうか。早起きで暑がりでパン好きなウマ娘といえば──)

田原は彼女の後ろまで近づき、声を掛けた。

「おはようございます。ビゼンニシキ先生」

その名前で呼ばれたウマ娘は、田原の方を振り返ると、ぺこりと頭を下げた。

「おはようございます」

ビゼンニシキは田原にそう言ってから、自分の腕時計に目を落とした。
「まもなくオープンかと思ってここに並ばせてもらったんだけど、迷惑だったかしら?もしそうなら出直してくるけど」
田原は頭を掻いた。
「あいにくと今日の分はまだオーブンの中でして。もちろんそう時間をかけずにお出しすることはできますが。すみませんねぇ」
田原が申し訳なさそうにそう言うと、彼女はは田原の気遣いを遠慮するように、軽く手を振った。
「いいのよ。私は、焼きたてのバケットというものに目がないだけ。釜から出した焼きたてのバケットの、あのパリパリっていう美味しそうな音。アレが聞きたくなっただけよ」
「なるほど、そうでしたか」
田原は手早く店の鍵を開けながら言った。
「先生もなかなかの通だねぇ。パン好きはみんな、あの音に惚れちゃうんだよ」
そして開いたドアを内側から支え、ビゼンニシキを店内に招いた。
「もう少しで上がりますから、イートインの椅子にでも座っててください。オレンジジュースでよかったら絞りますよ」
「ありがとう。そうさせてもらうわ」
ビゼンニシキはイートインスペースにある椅子を自分で引き、それに腰掛けた。
ただそれだけの動作なのに、思わず目を見張ってしまうのは、彼女が美しいからか、それとも彼が、既に鼻毛にも白髪が混じり始めているというのに独身であるがゆえなのか。それは田原にもわからなかった。


焼きたてのバケットは外気に触れた瞬間から、温度差で表面がひび割れていく。釜を開け、熱気渦巻くその中から素早く目当てのものを取り出すと、田原はそのうちの一つをまな板の上に置いた。件の音が店内に鳴り響き、ビゼンニシキは椅子に座ったまま首を伸ばしては、その音に耳を澄ませているようだった。
田原は素早く三切れ切り分けると、小皿と共にウマ娘の前に差し出した。小皿にはバター、レバーパテ、そしてマーマレードが乗っている。
「これはサービス。丸っこい耳は私がもらいますよ。好物でしてね」
「あら恨めしい。私もなのに」
田原は肩を揺すって笑った。
「はっはっは。私はね、コレを腹一杯食べたくてパン屋になったようなもんですからね」
そう言って笑う田原を横目にしながら、ビゼンニシキはバケットの一切れをつまみ、添えられたマーマレードに軽く押し付けてから口に運んだ。歯を立てた瞬間に、焼きたて独特の強い香りと、しっとりとした小麦の甘さが口内に広がる。そしてそれらをより強く味わうかのように、彼女はうっとりと目を閉じた。
「これは──美味しい!」
そしてやおら目を開けて、今度は皿に残った2切れに見入っている。今と同じ瞬間を異なるフレーバーで、さらに2度も楽しめると思うと、その顔に笑みが溢れた。

脱サラしてよかった。

田原にしてみれば、そう思わせてくれる顔だった。

田原はその日の予約の品である何種類かのパンと、ビゼンニシキ用にバケット三本、カゴに選り分けながら、言った。

「ところで、昨日のレースは見られたんじゃないですか」
ビゼンニシキは答えた。
「高知競馬場?」
「ええ」
ビゼンニシキはうんうんと何度か頷き、再びパンを手に取った。
「もちろん見たわ。ウチの塾生が出るレースですもんね」
──しまった。
田原は心の中で痛烈に後悔した。
ビゼンニシキは今でこそこの街に馴染んだウマ娘だが、主戦場は中央だ。そして特にハルウララ贔屓という訳でもない。
あのレースに参加した塾生といえば、確かゼネラルエムシーという名前だったはず──2着に終わったウマ娘だ。
この商店街に限らずとも、この街の今朝のといえばハルウララに決まっている。そうだとしても、話題と相手を間違えた。塾生の負けたレースという話題は、お世辞にも喋りやすいとは言えないだろう。
「あら?マスターは見なかったの?」
心境を悟られまいとする田原は、大袈裟に首を振り、顎を撫でた。
「いや、ええと、ええ。見ましたよもちろん」
また一口、パンを口に含んでからビゼンニシキは言った。今度はレバーパテだ。
「ウチの子速かったでしょう」
「そうですね。ハルウララを差し返したあの脚ね。アレには驚きましたよ」
「走破タイムは自己ベストだったのよ」
「そりゃあ凄い。流石は先生んとこのお弟子さんだ。羨ましくなりますね」
「もちろんよくぞやったと、褒めてあげたわ。でもね、ハルウララとイブキライズアップの方がもっとすごいの」
ビゼンニシキはそう言うとパンを皿に置き、レースの光景を思い出そうとしているのか、何か遠くを見るような目つきで田原に向き直った。
「まず第三コーナーでのしあの飛び出し。あの結末から逆算すれば、ここぞというタイミング、100%のタイミングで2人同時に飛び出したわ。その後、2人とも全く同じテクニックでウチのエムシーの前に回った。連携とは言えないまでも、ここでも同じ作戦を使っていた。そんなことってある?」
ビゼンニシキはイートインのカウンターの上で指を動かしながら話し続けた。差し込んでくる強い日差しに、薄いマニキュアが輝いていた。しかし、その眼差しからは明らかに熱を帯びた闘志が溢れており、それを真正面から受け止めた田原は、全身が総毛つ思いがした。
目がマジになった時のウマ娘が一番美人に見える。そんな事を自分に教えてくれたは、確か三丁目のスナックにいるチーママだったはずだ。田原も長い間そう思っていた。だからビゼンニシキに一目惚れしたのだ。しかし、それは決してこの世の真理ではないらしい。
「え、あの」
「その後、ウチの子はハルウララを差し返した。それでもハナは取り返せなかった。ベストタイムを刻んだあの脚をもってしても、イブキライズアップの方が、速かった」
「た、体勢有利の判定だったじゃないですか。どっちに転んでも──」
「違うわ」
「お──おかしいんでしょうか」
ビゼンニシキに気圧され、自分がめちゃくちゃな事を言っているのに気づいた田原は、気まずそうに体を小さくした。
より明確に思い出そうとするように何度か頷くと、ビゼンニシキは続けた。
「相手よりも速くなければ、相手よりも前にいなければ、あの体勢は作れないのよ。私に言わせれば、全然僅差じゃない。もしあの勝負が1600mだとしたら、勝ち目はあったかもしれないけど。ともかく、ウチの子が遅くて、イブキライズアップが速かった。それは事実なのよ」
そこでビゼンニシキは3枚目のパンをつまみ、今度はバターをたっぷりと塗りつけた先端をかじると、顎をたっぷりと使ってから飲み下した。

「ああっ──罪の味がするわ!」

ビゼンニシキの顔が再びほころび、同時に場を取り巻いていた緊張感が解けた。田原は、己のパン作りの腕とその味に助けられた格好になり、ホッと胸を撫で下ろした。

「でもね」
ビゼンニシキは続けた。
「そこは百歩、いや百ハロン譲って受け入れるわ。勝負だものね。私がわからないのは、ハルウララの方なのよ」
ビゼンニシキは残りのパンを口に放り込むと、その口を動かしながら言った。
「マスターはハルウララのファンだったよね?そこで聞くんだけど、あんなの今まで見たことある?そりゃあ昨日も負けたけど、負けるまでに至る工程が違いすぎる。一瞬とはいえ、残り3ハロン以内という状況でハナを取ったのよあの娘は。今までそんなシーンは見たこともないし、そもそもハルウララは、そんな事が出来ると思わせるようなウマ娘じゃなかった」
その意見に、田原は大きく唸りながら同意した。
「それには私も驚かされました。ハルウララっていうウマ娘は、ほとんどのファンから勝つ事を期待されていません。ですが彼女のレースを見ていると、それこそ2レースに1度くらいではありますが、勝とうという姿勢が走りに現れることがあるんです。でもそれは理に適ったものとは言えないものばかりで、タイミングしかり、コース取りしかり、まるででたらめな動きでした。
でも昨日のレースは違った。先生の言う通りで、全てが完璧なんですよ。私みたいな素人ファンがこう言ったらアレなんですが、あれはハルウララらしからぬ走りです。中央で何があったのか、どんなトレーナーに師事しているのか、気になって仕方ないですね」
「それだけじゃない気がするわ。ただ教えられたことをやっただけっていう、そんな単純な事じゃない気がする」
「どういう意味ですか?」
そこでビゼンニシキはオレンジジュースの入ったグラスを煽り、空にしてから言った。
「マスターはパン屋になってからどれくらいになる?」
田原は記憶を巡らせた。脱サラしたのは15年前のはずだった。それをその通りに彼女に告げると、彼女は人差し指を立てながら言った。
「マスターもオープン前は、経験を積む為にどこかで修行したと思うんだけど、ああしろこうしろって言われながら仕事するのって、楽な事だった?」
田原は首を左右に振った。
「いや、それは全然。何しろ出来ない事をやるんですからね。楽ではないですよ。私は特に出来が良くなかったもので、覚えるのにも時間はかかりました。出来るようになってからも、修行中は褒めてもらった覚えがありません」
「それよ」
「え?何が」
「やれって言われた事をやるのって、未経験者にとってはものすごく難しい事なのよ。手本を示されて、同レベルに事を成そうとしたら、センスを最大限に引き出して発揮させたとしてもそれは無理。やれと言われて、はいそうですかこうですね、と言えるのは、そもそも既に経験のあるものか、生来センスに恵まれているか、元々その能力を持っていた者に限られるわ」
そこまで言われて、田原はハッとなった。
「ハルウララは……センスがいいウマ娘とは言えませんでした」
「おまけに未勝利戦しか出たことがないわね。経験値と呼べるものはそれだけ。そのはずよ」
自分が想像したことが信じられず、田原の腕に鳥肌が立つ。
ハルウララにあったというのか。その能力が。
「まさか先生──だって、あのハルウララですよ?」
いつの間にか、ビゼンニシキは立ち上がっていた。
「ハルウララがそもそも強い。なくはないのよ。その可能性も」
ビゼンニシキは田原に空になった皿を返すと、丁寧に礼を言い、頭を下げた。
そしてこう言った。
「だから私はね、ウチの子を褒めてあげたってわけ。よくぞあそこから『あの』ハルウララを差し返したって。イブキライズアップがウチの子よりも速かったのは......そうね、それはもう別の話よ」
ビゼンニシキは入り口のドアノブに手を掛けると、内側に下がっているプレートを『Open』に返した。
「だからマスター、もしもこの店にウチの子が来たら、マスターからも褒めてあげてちょうだい。お願いね」

壁の鳩時計が鳴り、田原に開店時間が訪れたことを知らせた。

「美味しかったわ。特にレバーパテは最高よ。今度は黒ビールで頂きたいわね」
そんなことを言いながらビゼンニシキは店を出た。
田原は頭を下げ、通りの向こう側へと歩いていく彼女を見送った。

「……やれやれ」

田原はため息を付いた。ビゼンニシキと出会ってから今日に至るまで、田原はこれまでで一番長い間彼女と話していられた訳ではあるが、こんなにも綱渡りのような気分を味わうことになろうとは思いもしなかった。次からは、レースの話は控えよう。ハルウララの絡むレースは特に、だ。
田原はそう誓い、レジスターのスイッチをオンにした。

3本のバケットを抱えたビゼンニシキは、待ち合わせの場所へと急いだ。ほんのついでのつもりではあったし、実際その程度の時間しか使ってない筈だが、今待たせている相手は、もはや概念が異なるのではと思えるほどに時間にうるさい。遅れる訳にはいかなかった。

「さて、と。2人目は上手く使って欲しいものだわ。こちらとしても手塩にかけた、愛弟子なんですからね」

ビゼンニシキはそう独り言ちると、歩を速めた。

 

八百屋の店頭では、ようやく的場の思うような光景が出来上がっていた。その場におよそ似つかわしくないパソコンと、その画面の中を勢いよく走るハルウララの姿を見つけ、そのウマ娘は足をはたと止めた。

「おや、これは……また随分と、短時間のうちに鍛えたな」

彼女がそう呟いたのは、丁度画面の中のハルウララがハナをとった時だった。店主の的場はそれを聞き逃さず、画面の中のウララを指さしながら近づいてきた。

「らっしゃい!どうだいこの走り!俺たちのウララちゃんが帰ってきたんだ!お姉さんからもお祝いしてやってくれないか!特売のにんじんとだいこんは向こうにあるよ?さあ見てってくれ!」

その的場の言葉からは、もはや野菜を売り込んでいるのか、ウララを売り込んでいるのかわからなかったが、そのウマ娘はもう一度画面の中に目をやった後、にんじんが詰め込まれた段ボール箱の前に立った。そして的場に尋ねた。
「旦那さん、これで何キロあるのかな?」
「にんじんかい?その箱でだいたい3キロだね。今出してあるのは少し減ってるけど、奥には開けてない箱もあるよ。アンタ、トレセンの生徒かい?だったら寮に届けてあげるよ」
「それは好都合だ。なら二箱頂いても大丈夫かな」
「はい、ありがとね!」
的場はその場で勢いよく柏手を打つと、腰のベルトから小さな帳面を取り出し、そのウマ娘に名を訊ねた。
「送り先はトレセンでいいんだね。持っていくのは寮かい?事務局かい?それと、お名前は?」
「寮で頼みたい。名前は、シンボリルドルフだ」
「シン────何?」
的場はそれまでろくに見もしなかったそのウマ娘の顔を、その時初めて、まじまじと見た。
その鹿毛の前髪には、差し込まれたように白い三日月形が輝いていた。
何年か前、店に貼っていた日本ダービーのポスターの中のウマ娘も、ちょうどそんな三日月形を持っていたはずだった。
「えーと?お姉さん、今、シンボリの後に、もしかしてルドルフって言ったのかい?」
的場がやけにゆっくりと、そして大袈裟に口を動かしてそう言うので、ルドルフは少しだけ笑い、返答した。
「そうだが……ああ、そうか。何か身分証が必要なのかな?サインとか、そういうものも要るのかな」
ルドルフが思いついたようにポケットからペンを探ろうとしたのだが、的場は笑いながらその手を止めた。
「いいよ、いいって!」
ルドルフは礼を言いかけたが、的場の返答は、とてもそれには値しないものだった。

「いいよ!いい!俺そういうの大好き!お姉さんがシンボリルドルフなら、俺ぁジョージクルーニーってことでさ!それでいいじゃん!ははははは!」

その後の的場の行動は早かった。店頭へ速やかに軽トラを回すと、にんじんの入った段ボール箱を二つ積み込むや否や、再び運転席に乗り込んだ。
「ああそうだ、旦那さん」
ルドルフは的場を呼び止めた。
「なんだい?乗ってくかい?乗ってくんなら助手席は荷物が多いから無理だ。ルドルフさんには悪いけど、荷台に屈んでてもらうことになるよ?」
何しろ自称ルドルフなのだ。そいつは流石に無理だろう。そう思っていた的場であったが、ルドルフの答えはそれを軽々乗り越えるものだった。

「いや、法定速度で走ってくれればそれでいい。私もどうせトレセンに向かうんだ。後ろを走らせてもらうよ」

的場はまた笑った。
その日一番、楽しそうに笑った。

その後の風景は、暫くの間、この商店街に話題を振りまいた。
何人ものYouTuberがその映像をリアルタイムで報道し、夕方には全国区のネットニュースになり、次の日の朝には、高知新聞の地方欄を飾ることとなった。

にんじんを積んだ軽トラを、全力疾走で追いかける七冠王者。
それを追う、ウマ娘ファンと思わしきバイクと自転車の群れ。
それを追う、数台のパトカー。

最終的にはトレセン前に検問が布かれ、軽トラを含むその集団を一網打尽に捕らえ、道路交通法違反と騒乱罪で連行したという。

「会長!どうしてこんなところへ!?一体何があったんです!」

その日の夕方。
青い顔をしたクインナルビーが地元警察署に身元引受人として現れた時、警察署の駐車場では、シンボリルドルフによる即席のサイン会と撮影会が行われている真っ最中だった。

「やぁ、ルビー君。実はその……私にもよくわからないんだ」

それはそれは、実に賑やかで騒々しく、馬鹿馬鹿しい、高知の夏の午後だった。

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