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「コロンブス」に見るこの国の反知性主義と知的怠慢

(一応有料にしているが、最後まで無料で読める。それでもお金を投げたいという方だけが、是非このnoteを買ってほしい。)

Mrs. GREEN APPLEの「コロンブス」が、ネットで「差別主義的だ!」とか、「中にレイシストが居るのか!」などと騒がれている。あまりに騒がれているので私も見てみたが、確かにそう言う人が居るのも頷けるMVではあった。例えば、白人偉人に扮しているMrs. GREEN APPLEのメンバーが猿っぽい生き物に人力車を引かせたり、馬の乗り方を教えたり、航海術を教えたりなど、非常に「白人が猿を文明化する」という、植民地主義的なコンセプトでMVが作られているように見えてしまうのである。白人の植民地支配の時代を、さも肯定するかのように描いていると受け取れてしまう。実際そう受け取る人は多かったようで、事態を重く受け止め、Mrs. GREEN APPLE公式はその「コロンブス」のMVを非公開にした。そうしたコロンブスの評価や、植民地支配の歴史を知らないが故にそんなことが起こってしまったのだろう。無教養こそが、創作における障害である。この国に巣食うポリコレへの忌避が産んだ炎上だ。日本の反知性主義、反ポリコレの末路とも言えるニュースであった。


……本当に?

Mrs. GREEN APPLEの公式が出した声明には、『類人猿が登場することに関しては、差別的な表現に見えてしまう恐れがあるという懸念を当初から感じておりましたが』など、「知っていた」というのを示す文が多数ある。「無知から生まれた無神経なMV」と見るのは、早計すぎると言えるだろう。

またMVの中にも、例えば「元々ケーキやピザを食べており、普通に幸せそうで、文明的な生活を送っている猿の家に無理やり押し入った白人たち」というような描写がある。これはまさしく、植民地時代において、元々文明的な生活を送っていた新大陸に、白人が押し入った様を表しているのではないか。他にも「瓦礫が飛び散る道を歩き、島から立ち去る白人たち」というような描写もある。この瓦礫とは、現実における白人が滅ぼしていった文明を表していると言える。要はこのMVにおいて、「元々文明的な生活を送っていた猿たちの住む場所に押し入り、散々荒らして出てった」のがメンバーが扮する白人偉人たちなのである。こう読めば、実際の歴史での「文明的な生活を送っていた新大陸の人らを、散々奴隷にして荒らしてった」白人の植民地支配を、皮肉っている、風刺しているというようにも読み取れるのではないか。
Mrs. GREEN APPLEという立場故に明言出来ないが、しかし白人の植民地主義を批判するべく、「読み取れる人にしかそうと読み取れない範囲」で皮肉ったが、当然批判が殺到したので、自衛のために公開を停止したと考えれば、こうした攻めた「皮肉」と、その後の声明などにも辻褄が合う。Mrs. GREEN APPLE公式の声明に「知ってましたよ」という風に書いてあるのも、「無知による失敗」と自らのMVを位置付けられるのを避けようとした結果とも取れる。要は「言えないが察してくれ」ということである。


このようにして、あのMVは、「皮肉」や「風刺」として受け取れるのだと示してきたが、別に私はあのMVに問題が必ずしもないとは考えていない。やはり余りにも迂闊過ぎたというか、言わな過ぎたのは問題だ。「皮肉」や「風刺」としてお出しするなら、もうちょいわかりやすくしても良かった。最後に「猿たちが着ぐるみを脱いで白人たちを見つめている」など、わかりやすくする方法はあったはずで、それをしなかったのは、今の炎上のようなノイズを除去できなかったという点で、失敗ではあろうと思う。
しかし、最大の問題は、前述のような、その程度の読解も出来ずに、ただ「ポリコレ」に当てはめて、それに適っていないからとこのMVを批判するような、浅い批評が蔓延っていることである。なぜこのMVについての主流な意見が「差別的な描写で、白人の植民地支配を肯定する最悪のMVというものなのか本当に謎だ。ちょっと見れば、簡単にこの程度の「皮肉」は読み取れるはずである。はっきり言って、そうした人らは「知的怠慢」であるとすら言えるだろう。いわばそういう人らにとって、表現とは「ポリコレスタンプを押していくスタンプラリー」なのだ。「植民地主義を肯定していない」でまず1つ目のスタンプをペタン。「人間を猿などの動物に準えていない」で2つ目をペタン。「白人至上主義を内面化していない」で3つ目をペタン。このようにして、3つ揃えられた表現なら褒めて良い、そういう風に表現を見てしまっているのだ。だから今回のような、「あえて」肯定し、猿に準え、内面化することによって伝えたいことがあった(と考えられる)表現を見ると、そうした人たちはバグる。なぜなら、当然のことながらそれは「ポリコレスタンプ」を押せていない表現だからだ。そのため批判する。その裏に込められた意図や、皮肉などを感じとることも出来ずに。


もはやこれこそが、反知性主義なのではないか?そう思わざるを得ない。表現を「読解」するのは、少なくとも人間の今の視界の中においては、人間のみに許された、至高の知的娯楽である。知性をもって表現を飲み込み、その中にあるメッセージや、裏を感じる。そこには、まさしく人間のみが持つ(と信じられている)理性の営みがある。美しさすら感じるほどの営為なのだ。しかし前述の通り「ポリコレスタンプラリー」に興じる人らはそこを否定する。知性の営みたる「読解」を否定し、浅瀬でチャプチャプしながら「差別だー」と騒ぐ。これこそ、反知性主義の最たるものなのではないだろうか?「ポリコレ」は現代の、最大の「ポピュリズム」と言えよう。

この問題の本質はそこにある。国民のほとんどが「ポピュリズム」たる「ポリコレ」に毒され、知性の営みである「読解」を捨ててしまっているのだ。更に言えば、その構造に気づいてすらいないまま、賢しらに差別などについて色々講釈を垂れている人間が信じられないほどの数存在したというのも嘆かわしいことである。問題の所在に気付かぬまま、「賢い自分」という自意識の中で大衆迎合に走る者が大勢居たということだからだ。

『「ポピュリズム」たる「ポリコレ」』
これこそが、この国に蔓延る真の反知性主義であると、気づけないのが真の悲劇である。幸いなことに、世界中でそうなりつつあるため、「置いていかれる」ということは無い。しかし、大衆に迎合し、知性を捨てるのは、非常に残念なことである。せめて「読解」の火を絶やさぬよう、こうして「ポピュリズム」への抗議を記し、このnoteを終わりにしたい。このnoteの読者が、少しでも多くこの火を受け継いでくれることを祈っている。

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