「人を見る目」はセンスなのか?
フォレスト出版編集部の寺崎です。
自民党の総裁選が終わり、意外な人物が総裁となりました。われわれl国民の預かり知らぬところで総理大臣が決まるこの国の仕組みにいささか疑念が生じざるをえませんが、投票行動で意思を表明するほかありません。
さて、誰を選ぶかという局面は、一国の長たる総理大臣に限らず、企業の採用面談、入学面接、はたまたプロジェクトのメンバーの抜擢など、さまざまなシーンが想定されます。
そんななか問われるのが「人を見る目」でしょう。
今日はそんな「人を見る目」について、それははたして「センスなのか?」ということについて、人を見るプロフェッショナルである小野壮彦さんが書かれた『経営×人材の超プロが教える人を選ぶ技術』からひもといてみます。
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「人を見る目がない」という誤解
人を見る目がないということは、人生や仕事において大きな損失だということを、ここまでさまざまな角度から述べてきた。
さて、ぼくがそれ以上にもったいないと思うことは、とても多くの人たちが、このテーマに正面から向き合っていないことである。
それは「あの子は人を見る目がある」「私は人を見る目がない」というようなことを、あたかも生まれ持ったセンスだと勘違いし、努力することを諦めてしまっていることだ。運動音痴だとか音感がないといった、そんな類の話と一緒にされてしまっている。
私たちが、ついそのように考えてしまう理由の一つは、人生のかなり初期での、人の選択に関する失敗を、大人になってからも引きずっているからではないだろうか。
ありがちな手痛い失敗の代表例。
それはおそらく「恋愛」である。
多くの人が、をするだろう。若くて経験が浅いがゆえに、彼氏・彼女選びのミスチョイスをしてしまい、痛い目に遭うケースは当然多い。特に異性に対して奥手なタイプほど、その悪い思い出は尾を引くものだ。
なんといっても恋愛というものは、大概において、経験したときの情動が深くて重い。そのため、強度の高い「エピソード記憶」として脳にビビッドに格納されてしまう。これが厄介なのだ。
たとえ、その後はさほど、そういったネガティブな体験が繰り返されなかったとしても、その初期エピソードは、ちょっとしたことで容易に意識に引っぱり出されてしまいがちだ。
たった数回の失敗をもとに、「私には男運がない」「俺には女運がない」と、自分にはセンスがないとラベリングする。あるいは、「あなたほんと、人を見る目がないね」
などと親や友達から言われ、自分はそういうものだと思い込んでしまう。
やがて、〈自分=人を見る目がない人〉というレッテルを自分自身では ってしまい、それがいつしか、意識の深いところにしっかり根づいてしまう。
このようなメカニズムが脳内に組み込まれてしまった結果、人に関する判断が求められるたびに、そのエピソード記憶が脳から引き出され、決して事実ではないにもかかわらず、「あなたはセンスがないからやめとけ」というコマンドが自分に発せられてしまう。
しかし、ここで冷静に考えてみよう。
これまでの人生で「人を見る選択」をそれほどたいしてやっていないうちから、自分のセンス云うん々ぬんを語ることはナンセンスではないだろうか、と。
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たしかに、ありえます。
みなさんはいかがでしょうか。
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