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「人生に意味はない」と主張する生物学者の幼少期が面白すぎる

先週、新刊の池田清彦『人生に「意味」なんかいらない』の「まえがき」の前半部分を公開しました。

今回は後半部分を公開します(長いので、一部省略しています)。
生物学者である池田清彦先生の幼少期のエピソードがメインです。「知能検査」のくだりは、思わず笑ってしまいました。
池田先生は、これまでの人生で、一度も「人生に意味がある」なんて考えたことがないらしいのですが、そんな方の原点は非常に気になりますよね。

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「勉強をしろ」と言わなかった両親

 私自身の話をすると、意味を求める病に罹ったことはない。小児結核を患って、保育園にも幼稚園にも行けなかった私は、「みんなと仲良くしろ」と言われたこともなければ、親もまわりの人も人生の意味など教えてくれなかった。もしかしたら、小児結核で余命いくばくもない子どもに人生の意味や目的など教えても詮無いと思われていたのかもしれない。
 友だちがほとんどいなかった私は、自宅の前の原っぱにいた虫を捕まえたり、花を摘んだりして遊んでいた。綾瀬川のほとり、葛飾区水戸橋のそばの長屋に住んでいたが、長屋の前は大きな広場になっていて、蝶やバッタやトカゲやカナヘビがたくさんいたのだ。バッタやトカゲはただそこにいるだけで、別に意味のある存在ではなかった。捕まえたり逃がしたり、時には脚をもいだりして遊ぶのが楽しかっただけで、虫たちが何のために生きているのかなどと考えたこともなければ、まして虫の命が貴いなどと考えたことはなかった。
 病気がちの私を不憫に思ったのだろう。私の具合がいいときには、父親は日曜日になると、私を自転車の荷台に乗せて、荒川放水路の河川敷にアメリカザリガニを採りに連れて行ってくれた。その当時の私はこれが一番の楽しみで、ザリガニをバケツいっぱい採ってきた。食糧難の時代であり、父親にとっては、家族の食料確保という目的もあったのだろう。
 採ってきたザリガニは、井戸水を張った大きな盥(たらい)の中にしばらく入れておいて泥を抜いて、頭胸部をもいで、腹部だけをてんぷらにして食べた。
 あまり長く盥の中に入れておくと、小さなザリガニや脱皮直後の殻がまだ柔らかいザリガニは仲間に食われてしまう。友に食われるザリガニは、どんな気持ちなのだろうといった哲学的なことはもちろん考えなかったが、命は、はかないと思ったことは確かだ。もいだ頭胸部は飼っていた鶏のエサにした。腹部がないのにまだ生きているザリガニは、はさみを振り上げて威嚇するが、鶏はなんの躊躇もなくザリガニを丸呑みして次々に食べていった。「情け容赦もない」というコトバは知らなかったが、今にして思えば、そう表現できるような感慨が胸に拡がったような気がした。

 (中略)

 その頃の小学校では知能検査をしていた。私は知能検査が嫌いで、真面目にやらなかったりデタラメを書いたりしていたので、いつも知能検査の成績は極めて悪く、通信簿には「知能のわりにはよくがんばっていると思うので、成績が多少悪くても叱らないでください」と書いてあったりした。
 そういうこともあったからであろうか、父母は私に勉強をしろと言ったことはなく、私は魚を採って毎日遊び惚けていた。ただし、国語の教科書は学期の初めに全部読んで、すぐに暗記してしまった。

好きな蝶を採るために暇そうな大学教授を目指す

 小学校の3年生か4年生の頃から昆虫採集に夢中になりだした。魚は採ってもすぐに死んで腐ってしまうが、昆虫は標本にすればきれいなまま保てることを知ったからである。
 最初に凝ったのは蝶の採集と蒐集である。冬以外の季節は暇さえあれば、蝶を追いかけていた。日本産の蝶を全種採集するのが夢だった。父母はここまで生き延びてきて、後はおまけの人生なのだから好きに生きればいいよ、と思ったかどうかは知らない。「蝶など採って何の役に立つのだ」というような説教はされた覚えがない。

(中略)

 中学生になると、蝶採りはさらに嵩じて、休日には高尾山とか奥多摩とかに電車に乗って行くようになった。日本産の蝶の名前と特徴をすべて覚えてしまい、ほとんどの蝶は飛んでいるところをちらと眺めただけで種類が判別できるようになった。中学生の私にとって、人生の意味は、役に立つ人間になることでも、金を稼ぐことでもなく、ただ、蝶を採っていられればいいということになったのだ。
 しかし、世間ではこういうのは人生の意味とは言わないようで、ならば私は「人生に意味はない」と思い定めて、一番楽しいことをしようと考えたのだ。
 もちろん、大富豪の息子でもない私が、好きなことをして生きるといっても、生き延びるだけの金は稼がなければならない。そこで、中学生の私が考えたのは、一番暇そうで、ストレスがなさそうな職を選んで何とか食いつないで、蝶採り三昧の生活ができないかということだった。
 私がそのときに考えた一番暇そうな職業は、なんと大学教授であった。その頃の大学教授は暇そうに見えたのだ。今の大学教授は忙しそうで、今なら大学教授になろうとは思わなかったろう。中学生の私は、分類学か生態学の大学教授になってなんとか食いつないで好きな蝶採りで人生を過ごすためのプランを練ったのである。
 そのためにはそこそこの大学に行って大学院を出て、博士の学位をもらってどこかの大学に潜り込まなければならない。
 中学生になる頃には、父親は、知能検査の成績ほどばかではなさそうだ、と気づいたのだろう。「たまには勉強しろよ」と言うようになった。
 私のほうも、中学の終わり頃から、蝶採りの合間を縫って受験勉強を始め、都立上野高校、東京教育大学を経て、東京都立大学の大学院で博士の学位を取り、山梨大学に就職できたのである。どんな論文を書けば就職しやすいかという戦略を立てて研究した覚えがある。
 私の興味は蝶からカミキリムシやクワガタムシの蒐集に移っていたが、しばらくしてから、進化論研究が面白くなって、昆虫蒐集と合わせて、この研究に夢中になった。当時の国立大学の教員は終身雇用だったので、就職してしまえば学界の流行を追う必要はなかった。

研究の動機は役に立つかどうかではなく、面白いかどうか

 当時の日本生態学会はリチャード・ドーキンスに代表される極端なネオダーウィニズムに席巻されていたが、私はこの学説がまったく気に入らなかったので、学会にはほとんど行かずに、好きな研究に没頭した。学会を牛耳ろうとか、賞をもらいたいとかいったパトスはまったくなかった。
 大学教授の務めは役に立つ研究と教育にある、と知ったようなことを言う人がいるが、そう思う人はそうすればいいわけで、私には何の文句もないが、心の中ではバカじゃないかと思っていた。
 私は自分の好きな研究に心血を注いだが、それがどんな役に立つかなどと考えたことがなかった。ただ面白いからやっていただけだ。教育にはいかなるパトスもわかなかった。もちろん、講義は真面目にしたが、学生をコントロールするのが嫌だったのだ。私自身、他人にコントロールされるのは死ぬほど嫌いなので、学生に私の考えを押しつけるのも嫌だったのだ。

(中略)

 自分の人生は自分で考えて勝手に生きろ、他人に自分の考えを押しつけたりコントロールしようとしたりするんじゃないよ、ということだけが、私の教育方針で、世間ではそういうのは教育とは言わないようで、困ったことですな。
 というわけで、私は、不変で普遍の「人生の意味」などということを考えたことはないのである。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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(編集部 いしぐ ろ)


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