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東京五輪開催前に知っておきたい、私たちの正気を失わせる感動的な言葉

正直、今年の東京五輪の開催は中止になると思っていました。6月のこの時点で緊急事態宣言が解除されず、医療が逼迫しているのだから、尾見先生がおっしゃるように、「普通はない」と考えていたからです。


ところが、昨日の2年ぶりの党首討論をYou Tubeで見て、菅総理はやる気マンマン。「安心安全」と気勢を上げる姿、そして「東洋の魔女」「アベベ」の思い出話を聞き、総理の五輪への並々ならぬ意欲を感じ取った次第です。


私もスポーツが好きで、特にバスケやサッカー、マラソンが非常に楽しみです。そのほかのスポーツも、五輪だからこそテレビで目にする機会を得られるので、本当に小さい頃から五輪大好き人間で、開催を心待ちにしています。私にとって五輪の記憶で一番古いのは1988年のソウル五輪で……(自分の思い出話はウザがられるので以下略)。

さて、東京五輪開催に向けてよく使われている、「安心安全」「コロナに打ち勝った証」「希望と勇気を世界に」「復興五輪」(最近はほとんど聞かない)……といった言葉……。
非常に前向きな字面です。
しかし、だからこそ余計に感じてしまう中身のなさ、言葉の「ハリボテ感」は一体何なのでしょうか?
同様に感じている読者の方もいるかもしれません。
そこで、この虚しさの正体を探るべく、私がかつて編集した『場を支配する「悪の論理」技法』(とつげき東北・著)の中で紹介されている「感動的な言葉」「道徳的な言葉」の解説をいくつかピックアップして紹介したいと思います。

いい目をしている
もともとはマンガ等において、ある登場人物が「正しい」ことを表現したいものの、ほかの特段のシチュエーションが用意できない場合に用いられる「正しさの根拠」。
「目を見ればわかる」「私の目を見て」等も同様の構造。
親に感謝
感謝したければすればいいし、したくなければしなければいい。常に「親に感謝しなければならない」理由など論理的には何1つないのだが、親は大切にすることとしておかなければ、年老いた親が困るのだ。
終わりではなく始まり
単なる「終わり」の感動表現。
記憶の中で生き続ける
どうでもいいアピール。筆者が小学生の頃に惨殺した昆虫たちの一部は、筆者の記憶の中で鮮明に生き続けているが、テレビ等で報道された「どこかの病死した芸能人」のことなど、とっくに忘れている。
心を育てる
頭脳を十分に育てる教育を施すことが困難な学校が、その代わりとして生徒に施すと謳いがちな教育方針。
明確に結果が表れるもの(偏差値や進学実績等)で勝負することは、一般に弱者にとって不利である。だからこそ、明確に差が出ない部分でこそ自分たちは勝負し、さらに、実はそちらこそが重要であるかのように吹聴してみせる。結果的には「あいつは頭はいいけど、人間性がな……」などといった考えを持つ、頭が悪く心も狭いゴミのような生徒が大量に巣立ってしまうだけなのだが。
この種の様子は、高い知性・階級等の「高級なもの」に対する、道徳的奴隷一揆にほかならない。
自分が生きた証
21世紀を迎えた今になってなお、宇宙が生まれ、物質の諸状態が「偶然」の結果として現状をつくり出しているという、ダーウィン後のパラダイムに目を向けられず、自分が生まれた「意味」等について考えることを余儀なくされる意志薄弱かつ無知蒙昧な者たちが、分不相応にも残したいと切望しがちな抽象的成果物。
人生や行為に「意味」を見いだそうとするから、単調な結論に達するのだ。タバコは健康に悪いとか、こんなことをしても将来役立たないとか、人は物事の推移に「意味」を求めすぎる。だから「無意味な遊び」を素直に楽しめないのだ。
自分を大事にしろ
ドラマ等で、援助交際に走ろうとする生徒や、ケンカに明け暮れる「不良」に対してこの言葉を投げかける。
その種の行為は「本当の君」が望む真意ではなく、それは自分を粗末に扱っているということであり、そして君は自分を大事にする義務と価値があるのだ、という「論理」がつくられている。非行に走る少年少女たちはその先生(または親)の愛情に触れ、考えを改めるというわけである。
しかし、ケンカは止めるが危険なプロボクサーへの夢なら応援するといった、その後のありがちな展開を見るに、ようするに彼ら大人が考える「成長」において一番大事なのは「制度への順応」でしかない。それは残念ながら「自分を大事にする」こととなんら一致しない。
人生が変わる本
1冊の本を読むことで人生が変わる場合、次の2通りある。
①当該書物があまりにも優れていること。
②人生があまりにも薄っぺらであること。
①ばかりが注目されがちで、②が忘れ去られてしまっていることを問い直す時期に、我々は来ているのではないだろうか。
人生の意味
「生まれてきた理由」などと同様、勝手に定義すればよいのに、あたかもあらかじめ存在するかのように人々が考え続けてしまう謎の概念。人生に意味などなくてよい。
成長
身体的意味ではなく精神的意味では、制度への適応を賞賛するためにこの言葉が用いられがちである。暴走族をやめたり、子どもを産んで何がしかがわかった気になったりすることを、人々は成長と呼びたがる。
成長はあくまでも知的進歩とは独立の語として用いられる。人々は各種の成長を経て大人になるとされるが、事実、大人と呼ばれる人の中に、十分な知性を兼ね備えた人間が数多くいるかどうかははなはだ疑問である。性器の発育等の知的でない成長もそれはそれで必要だとしても、知的成長も必要であり、「バランスが大切」だと思われる。
問題は、単なる偶発的な変化を「成長」と形容して、「今の自分」のほうがかつての自分よりも優れているとみなしたがるような傾向にある。暴走族をやめるとか、社会に出て働くという単なる制度への適応が「成長」ととらえられるならば、彼らはもっと成長して一流大学に入学したり、一流企業に入社せねばなるまい。ちょうど自分たちにとって(努力量と世間からの視線が)心地よい場所にたどり着いた段階で「成長した」と感じてとどまるならば、それはいささかも精神的成長とは呼べまい。
卒業してみればいい先生だった
どんなに鬱陶しい先生でも、卒業し、進学する頃には懐かしさとともに「思い出」になりゆく。
「懐かしさ」とはどういった感情なのかという問いについてはここでは触れないが、その条件の1つとして、相互の権力的関係がなくなることが必要であることは指摘しておこう。緊張の緩みが一種の感動をもたらすという共通の傾向を利用した教育があるように、「懐かしさ」の感覚もまた、権力関係が弛緩する際にのみ生ずる。鬱陶しい相手から解放されることが保障された瞬間、その相手の嫌さも「許す」ように働く。
近道はない
「○○するのに―」等の形で用いられ、「努力すること」によってしか道を切り開けないものであると思わせることで、努力せねばならないという強迫観念を与える教育用語。
教師も全員が全員バカなわけではない。したがって、こんな妄言を吐き続けるのには理由がある。「合格に近道はない」と言っておけば、n人いる生徒のうちいくばくかは、真に受けて努力しはじめる。偏差値50への記念すべき第一歩である。
一方で、もともと要領よく勉強する生徒は、教師の間抜けな指導を聞き流し、今までどおり淡々と独自に成績を伸ばし続ける。結果として、全体の学力が上昇するわけである。
努力
大衆に重宝されがちな、各種の物事にとって重要であるとされる指標・行為。だが実際には、結果(または才能)等と比較して、その量的差異が表面化されないために、さまざまに悪用される。この語の使用用途は、しばしば結果(才能)が出ないことへの言い訳、互助会的な相互慰労、または結果(才能)を出した人へのあてつけなどがある。
努力が大事であるとされだしたのは、「機会平等」とやらの、現実味のない現代大衆文脈的な理想によるものでしかなく、結果(才能)を出している人に対する「努力」の対置は道化的行為である。
ところで、大衆は努力しているのであろうか? まったくそうは思えない。狭い交友関係の中で、自分と同程度に成果をあげている人を「努力している」とお互い認め合いながら、より高い成果をあげている人にはそれを認めない。逆に「才能」が生まれながらに劣っている他人には「努力が足りない」などと勝ち誇るような思考形式を持つ者がたくさんいるのを、筆者は知っている。そして、自分たちが結果を出せないことに対して「この分野については、自分は力を入れていない(努力していない)から」と言い逃れすることも。
無駄にはならない
何も言わずにおくと「無駄になる」と認識されがちなものについて、その種の認識を防ぐために言う言葉。
しかし、勝利や成功等に対して「無駄にはならない」と言うことはありえない。すると、見出し語をあてられた敗北や失敗等は、相対的にやはり無駄になりやすいのだという事実が際立ってしまう。
やらずに後悔するよりはやって後悔するほうがいい
何度もやって失敗してきた経験をあっさりと忘れ、この名言を垂れ流しながら目を輝かせる連中の猪突猛進ぶり、前後不覚ぶりには絶句するばかりだ。かと思えば、彼らの多くは大学受験において東京大学をはじめとする一流大学を受けもしない(東京大学理科1類は「受験生の」4人に1人程度が合格するのだし、大阪大学工学部や東北大学理学部など、年によっては倍率が2倍にも満たないにもかかわらず)。「やるだけ無駄」であることが存在し、彼らにしばしばその言葉がお似合いであるという容赦のない事実に対する自覚がないわけではないらしい。
私の長所は何事にも積極的に取り組める
長所と呼ばれるべき性質または才能において、神の寵愛を受け損なった人間が、採用面接等において「模範解答」の1つとして提示してみせる発言のうち、最も凡庸で面接官をあきれさせがちな言葉。

コロナ禍において大きな打撃を受けている医療従事者や飲食業、観光業の方を前にすれば、五輪開催のための感動的な言葉や道徳的な言葉が持つ前向きさは、虚しく失速するのではないか、などと考えつつ……。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

(編集部 石黒)

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