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何か言ってるようで、何も言ってねえ的な言葉

こんにちは。フォレスト出版の石黒です。
コロナ禍以降、安倍首相の記者会見がテレビで放送される機会が増えました。
私はNHKで見ているのですが、午後6時からスタートして、だいたい20分~30分くらい首相が演説を読み、続いて記者との質疑応答がはじまります。ところが6時40分頃になると、会見の途中で突然画面がNHKのスタジオに切り替わり、政治部記者の岩田明子さんの解説が始まるのです。そしてそんな流れが、いつの間にかお約束になりました。
かつて巨人軍の伝説的ストッパーで、「8時半の男」(いつも8時半ごろにリリーフとして登場する)と呼ばれた宮田征典さんという方がいたそうです。それになぞらえて、岩田記者を「6時40分の女」と評している方がいて、思わず膝を打ちました(ラッパーのダースレイダーさんと時事ネタ芸人のプチ鹿島さんです)。まるで首相の演説や質疑応答は前座であり、岩田記者の解説こそがメインであるかのような演出に見える、と面白おかしく話していました。
このように、最後の最後においしいところを岩田記者が持っていくからか、私は「長ったらしいけど、10万円もらえるし(もともと税金だけど)、なんか良いことを言ってるんだろうな」くらいな感じで聞いていて(しかも酒を飲みながら)、安倍首相が読んでいる演説の内容は、ほとんど頭に残りません。当然ですよね。

一方、私と違って真面目に聞いている方で、安倍首相が読んでいる演説は「ポエムだ」と評価している人がいることは知っています。そして、この「ポエムだ」という批判の本質とは、おおよそ「なんか良いこと言ってそうだけど、結局何も言っていないじゃないか」みたいな感じかと思います。もちろん、安倍首相が読んでいる演説に対してポエムだと批判できるほど、私は真面目に聞いているわけではないということは、ご承知おきいただければと思います。

さて、この「ポエム」に関連して、私がかつて編集した『場を支配する「悪の論理」技法』(とつげき東北・著)という本をご紹介したいと思います。この本には、「何か言っているようだが、よくよく考えてみると?」という特徴のある言葉を「悪の名言」と称し、それらをかなりの数まとめた辞典を付録として巻末に付けました。今になって考えると、まさに「ポエム」と批判されるような言葉です。非常にマニアックな試みですが、著者の視点が独特で、これがなかなかおもしろい。
以下、その中からいくつかをピックアップして紹介しましょう。

あきらめたらそこで終わり
相手を論理と無関係に自分に都合よくコントロールすることを目的としつつ、使用者本人までもがそれに無自覚であり続けられるという、名言の本質的要素を持つ語。対義語は「引き際が肝心」。
過ち
道徳的文脈における「ミス」の感動表現。
言わせておけばいい
言われるのを止めたいが止める権力がない、という事実から心理的に逃げるための定型的な表現。「言わせておく」と表現することで、あたかも「言われる状態」が、自らのコントロール下にあるかのように認識上の錯覚を持つことができる。
失ってはじめて気づく
あるものが存在することが当然であったために、それを失ったことによってはじめて気づかされる存在の大切さということだろう。しかし、我々は塩やマヨネーズについても、失ってはじめて気づくのである。あれだけドラマや歌で指摘されているにもかかわらず、いまどき恋人の大切さを「失ってはじめて気づいて」いるとすれば、ただただ無念としか言いようがない。そうした人はおそらく、今後も失い続け、失ってはじめて気づき続けるだろう。
運命の出会い
普通の出会いの感動化表現。
思いやり
自分にとって都合のよい人物に対して、廉価な「精神的報酬」を与える際、そして自分にとって都合の悪い人物に対して、重大な欠点を示す(ことができると信ずる)際に、道徳主義者たちが好んで用いる、途方もなく安直な評価指標。
偏っている
相手が常識等から外れているということを印象づける目的で使用する言葉。大衆は、自分がちょうどバランスのいい場所に立っており、自分の考えが健全で一般的であり、常識的であるという強い信念を持っている。どんな思想・信条も、それと離れた何かから見れば偏っている。
意識すべきなのは、そこに客観的な「中心」などはじめから存在しないということである。
自分の身体のことは自分が一番わかる
主としてドラマ等の物語において、死期が間近に迫った人間が、家族からの白々しい励ましに対して返す言葉。もちろんこうした思い込みは大部分、単なる誤解である。
筆者の知人の父は、単なる胃潰瘍を胃がんと勘違いし、家族の必死の――まさに必死の――「お父さん、がんじゃないよ」という励ましに対してこのセリフを吐いてしまい、現在は完治してしまっている。彼の思いとは裏腹に、彼以外のすべての人が、彼自身の身体のことについてわかっていたのである。
対案を出せ
愚劣な思いつきを一応提出してさえおけば、批判されても「対案を出せ」と相手を攻撃できる。相手に負担をかけさせることによって自らの意見の粗末さをうやむやにする手法の1つ。
バランスが大切
「徳とはいかなる状態であるか。それは中庸である。中庸とは2つの悪徳の、すなわち過超に基づくものと不足に基づくものとの間のことである」とアリストテレスは唱えた。たとえば、蛮勇と臆病の中庸に真の勇気が存在すると。しかしながらそれは「最適な点こそが最適である」と言っているのと同じで、単なるトートロジー(同語反復)である。自分にとって不都合なことを、他人が「やりすぎている」と感じた場合に、この言葉をぶつけて使う。対義語は「中途半端が一番悪い」。
勉強ができるという意味ではない頭のよさ
凡人は「頭のよさ」を、ひとまず「学校で得る知識」の量とはおよそ独立のもの、場合によってはむしろ相反するものとして表現しがちである。
これは、知識をつめこむことにさえ失敗した者たちが、「本当の頭のよさ」を知識以外の領域――たとえば熟考を要しないパズルやクイズ、あるいは日常的会話程度の水準に限定された「ひらめき」の領域――に設定することによって、「知的一発逆転」をはかるためである。
彼らは高度で複雑な政治や、学問的諸問題を「ひらめき」と専門的知識とに基づいて解決することの代わりに、電車の乗り継ぎのわずかなスムーズさや、おつりを受け取る手間の細かな時間的短縮の問題を解決することに心血を注ぎ、それこそが「本当の頭のよさ」を顕著に表す指標になると信じているのである。
本当の自分
現状と異なる、より納得できる状況にいるはずの自分への幻想。単純に願望として信じられている場合と、自分を大きく見せるために意図的に使用される場合とがある。
許されない
単に「許さない」とだけ言うと主観的な印象があるが、「許されない」と言うことによって、あたかも自分ではなく周りみんなが許さないのだ、特に自分の心が狭いわけではないのだ、という「客観的な」印象を与えることができる。


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