見出し画像

いっぱい歩くのが好きだ

”慚愧に堪えない”
-自分の行いについて、残念に思い、反省すること。 恥ずかしく思うこと。             

webilo辞書より出典

歩くのが好きだ。
しかもちょっとした散歩じゃなくて、結構な距離を何時間もかけてぐんぐん歩き続けるのが大好きだ。
音楽やラジオ、寄席などを聴きながらあるいていると、それ以外のことは全て頭から霧散していく。仕事上のストレスが溜まって死にそうなときは、そこから逃れるための策として歩く時間を作っている。


初めて気づいたのは、高校3年の夏。来たるべき大学受験に向け横浜の進学塾へ毎日通い、朝9時に自習室に入り夜の22時までひたすら勉強する日々を送っていた頃だった。
傍から見たら真面目な学生に見えていたものの、元来の怠け者な性分と集中力のなさも相まって、塾にいる13時間の1/3くらいを惰眠やスマホゲームに費やしていた。その癖夜くらいから「やばい、今日全然勉強できてない…」と焦りはじめ、結果塾を出るころには「今日もサボってしまった…なんて自分は愚かな奴なんだ…」といっちょ前の自己嫌悪に陶酔する日々を過ごしていた。
そんな慚愧に堪えない状況では、高校生くらいの年頃だと「塾や参考書のお金を出してもらってる親に申し訳ない…」という気持ちになってくる。そしてせめてもの償いとして、定期的にスイカにチャージされる交通費だけでも浮かそうとという考える。
よって受験勉強が捗らずサボってしまった時は、塾から自宅までの6駅分を歩いて帰ることにしていた。時間にして2時間前後かかる帰路だったが、好きな音楽やラジオを聞きながらあるいていると、自己嫌悪から解き放たれ「明日は頑張るぞ」と実にさっぱりした気持ちで帰宅できていた。

今思えば、そんな時間あったら早く帰って勉強しろよと罵声を飛ばしたくなるものだが、当時の自分は受験の焦燥感とサボりの自己嫌悪から逃れるためには「交通費を浮かす」目的で歩くことしか考えが及ばなかった。
そこからの人生も、サークルでの人間関係/親との確執/就活関連と何か自分に負荷が掛かる時は、現実逃避のように歩くことが増えていった。
一度色々あって精神科に行った際、この話をしたら「それはある種の自己防衛かもね」と言われ、妙に納得したことを覚えている。確かに自分にとって歩くことは、ネガティブな感情に引っ張られあらぬ行いをする前の”メンタルリセット”として機能していたのだ。
今や明らかに電車やバスの方が安く済む移動も、「交通費を浮かす」という大義名分が無くなったにも関わらず、歩いて向かうことが多々ある。

ちなみに趣味の欄に「散歩」と書くことは多いが、一般的な散歩をイメージしている方とはちょっと異なる。
最高で横浜~熱海で80km(18時間)、最近だとGWに山手線内回り43km(7時間半)を歩いている。(距離でマウント取ってるみたいなので、趣味「散歩」と書いてる人と話す時は自重する)
正直1日に80㎞歩いた時は足も膝も壊れる寸前で、「自分の人生でこれ以上は無理かもな」と考えていたものの、100kmウォーキングというイベントを目にしたり、不眠で150km近く歩いているユーチューバー(https://www.youtube.com/channel/UC3oYIqgoksMQ1k8X44-1ZNA)を見て、いつかまたチャレンジしたいなと密かに企んでいる。

長時間歩いていると”ウォーキングハイ”みたいな気分になることがある。己が足で、点Aから点Bに移動していることにテンションが上がってしまう。時速4km満たないくらいの速度なのに、目の前の景色がぐんぐん前に進んでいくことに興奮を覚えてしまう。
また、一定歩いた後に海風やビル風に晒されると、サウナでいう”ととのう”状態になることもある。 
丸の内付近で信号待ちをしている時、豊洲の橋で景色を眺め観る時、ぶわっとした風に充てられて脳みその中からじんわりアドレナリンやらセロトニンが分泌されるのを感じる。

東京に引っ越して来てからもいっぱい歩いてきたが、実は歩く上で一つだけマイルールを設けている。
それはランニングシューズやトレーニングウェアを着用せず、普段着の状態で歩くこと。
自分が好きなのは”ウォーキング”や”有酸素運動”ではなく、あくまで”散歩”であるという謎の矜持を胸に、今日も通勤定期を無視して長い帰路につく。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?