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自己紹介(高校3年生~大学進学まで)

今更ながらの自己紹介の続きです。
松平こどもサークル・かのこ主宰の安藤さち子です。

逗子の高校に通いながら福祉の道に進むことを決めた私は、
大学も福祉学部を選ぼうと思っていました。

その前に小学生時代に少しさかのぼります・・・

1,『太陽の子』に衝撃を受けて

小学生の頃は、活字を読むのが好きじゃありませんでした。絵本は大好きでしたが、絵のない本を集中して読むのは苦手な方でした。

宿題の読書感想文と言えば、はじめに、とおわりにを読んで済ませるよくある?!タイプでした。

5年生か6年生の頃、確か父が読むことを奨めてくれたのだと思います。
それが灰谷健次郎さんの著書『太陽の子』でした。
主人公のふうちゃんが、お父さんが精神的に病んでしまう理由を追いながら、周囲の大人たちに寄り添われる中で、沖縄戦を追体験していく物語です。

こんなに主人公に感情移入して、あっという間に読めてしまった本は初めてでした。
と同時に、沖縄戦について、ふうちゃんを通して知ってしまった私はとてもショックを受けました。

時代は、バブル期真っただ中。
駅に行けば“沖縄”“リゾート”“南国”“パラダイス”そんな観光広告がおきなわを売り込んでいました。
この時点で、私の知るおきなわは、ふうちゃんが体験したものとほぼ同等のものになっており、
これらのポスターが違和感としてうつりました。

なんかおかしい、って。

2,琉球音楽に触れて

高校の時、書道クラス、美術クラス、音楽クラスの3つに分かれていました。
私は迷わず音楽クラス。
この選択は今思っても、間違ってなかった!と感じます。
音楽好きの集まった通称「音クラ」はいつもにぎやかで楽しかったです。

音楽の先生ともまるで友達かのように接してしまい・・・
ランチタイムは先生のところに当然のごとく居座って、
マリンバを弾いたり、コンガを叩いたり、仲良しの5人でピアノを弾いて歌ったりしていました。
その先生が、大のおきなわ好き。
おきなわの魅力をいつも語ってくれました。
そして、琉球音楽を教えてくれました。
特に好きになったのが、民謡。
同じCD(カセットテープだった可能性も💦)を繰り返し聴き、意味はわからないながらも、メロディは覚えていました。

音クラの友達の影響もあって、サルサも大好きになっていました。
横須賀ジャズフェスティバルで、オルケスタ・デ・ラ・ルスのライブを観た時は感動して、出待ちをしてヴォーカルのノラさんにサインをもらうほど。

そんなわけで音楽的にも南へ南へと向いていたようです。

3,おきなわ行きはあきらめ千葉へ

自己紹介その1で書いたように、私は早く家を出なくちゃいけないと思い込んでいました。
実家から仕事に通う、とか結婚するまで実家で暮らすというよくあるモデルが身近にいなかったことが強く影響しています。

家を出るには出るけれど、海外に行く勇気はなく・・・
福祉学部に行きたくて、
おきなわに興味がある!

そうだ!琉球大学だ!って単純に思いました。
けれども社会福祉学部がなかったので、これまたよく調べもせず断念したのでした。
(のちに琉球大学からも社会福祉士になる道があったことを知るのですが・・)

千葉県にある淑徳大学の社会福祉学部に、指定校推薦枠があることを知りました。
私ともう一人が希望しましたが、
なぜか私だけ、学校から推薦してもらえることになり、
みんなが受験勉強する中、
私は小論文のみでの進学がほぼ確定しました。

それが夏休みのことでしたので、
小論文の書き方を国語の先生からマンツーマンで教われるだけでなく、
自動車免許を取得したり、
友人と遊べない分、自分一人自由な時間を満喫しました。

冬が近づくにつれ、暇を持て余すようになり、
親戚から断食を習って、試みたりもしました。
断食明けの補食で最初に口にした、お野菜の甘みは今でも鮮明に覚えています。

4,震災が起こる

そして、起こった阪神・淡路大震災。
朝から、何事かとテレビの前から離れられませんでした。
そしてどうしようもないもどかしさを感じたものでした。
現地はどうなっちゃっているんだろう・・・って。
そんな時、友人を通して、ボランティア受け入れの道筋があることを知ります。
既に震災から1か月半以上が経っていましたが、
私は即決でした。
私たちのボランティアグループは六甲に拠点を置き、
主に長田区の支援に向かいました。
最初に足を踏み入れた時、あたり一面の焼け野原に言葉を失いました。
終戦後を想像してしまうほどでした。

社会福祉専攻であることを知ってもらっていたからでしょうか・・
地元の保健師さんに同行して、独居老人宅へのケアを手伝わせてもらったり、
仮設住宅で困った人がいないかを訪ね歩く活動などをしました。

短い期間でしたので、これといったこともできずに
関東に戻ることになりましたが、
この経験がきっかけとなり、大学ではサークルを立ち上げることになるのでした・・・

つづく







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