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保育者の専門性が子育てで裏目に!?

どうも、主任やまもです。

幼稚園教諭をしたり、大学で講義をしたり、主任やまもの園内研修室を運営したりしています。


保育者の仕事は誰でもできる、という意見がありますね。

一方で保育者は専門職である、という意見もあります。

私は保育者の専門性は間違いなくあると考えます。

その専門性を発信できていないという課題はあると思いますが。

保育者は子育てとは異なる”保育の視点”で子どもを見ていることを示すべきなんです。しかも、保育者ではない人が分かるように説明しないといけない。ここの力がまだ足りない。


そんな専門性ですが、実は子どもの育ちの邪魔をしているのではないか。

そんなことを考えたので、今日はお伝えします。



先読みが過ぎる

保育者の専門性の一つに、子どもの行動の先読みがあります。

といっても、預言者ではないので、きちんと経験に基づく先読みです。


例えば、食事の場面。

「そこにコップあると危ないなあ」と思うことありませんか。

家庭でも気付く保護者の方もいますが、私たち保育者は毎日何人もの子どもと食事をし、幾度となくコップを倒され、床を拭く日々を過ごしてきました。

なので、危ない予感がして体が反応します。

①「コップの位置、あぶないよ」と声をかける。

②大人がコップをずらす。

どちらかをします。


食事に限らず、危ない予感がすれば先に声をかけたり、ものを避けたりして先回りします。悪いことではないです。怪我をする危険を回避するのは大切な力です。


ですが、ここで気になることがあります。

先読みによって子どもの失敗を奪っていないか。です。

子どもは失敗した経験から学ぶことも多いです。

取り返しのつく失敗も大事なんですね。

それを保育者は奪ってしまっていないか。どうでしょう。


問題は子育ての場面

失敗の経験の話をしましたが、さらに問題を焦点化させます。

保育者の家庭の中です。つまり私のことです。


職業癖で先回りをした結果、家庭で子どもの失敗を回避してしまう。

そうなると、息子が失敗を経験しなくなります。

お茶をこぼす失敗も、危ない遊び方で(本人が)ヒヤッとすることも経験せずに成長していく。


これっていいのかな?もしかして、あえて失敗させた方が良いのかな?

そんなことを考えることがあります。

失敗をリカバリーすることって大切じゃないですか。

こぼれたお茶を拭く。落ちたご飯を拾う。危ない遊び方を経験して自分でやめる。いろいろな失敗からの学びがあります。自分でリカバリーができて、他人を助けることもできると私は考えます。


アドラー心理学でも、失敗した時は出来る限りの原状回復をさせるのが大事だと言われています。失敗の責任をとる、ということですね。

「失敗によって失われたものがあれば可能な限り原状回復に努めること、同じ失敗をしないために今度どうするかを検討すること、人を傷つけるということがあれば謝罪することです。」とまとめた人もいました。


お茶をこぼしたリカバリーを大人がすると、子どもは失敗を学びません。

おしっこを漏らした時に大人がすべてリカバリーすると、子どもは責任をとれません。


可能な限りの責任をとる(現状回復する)ことは子どもの学びになります。



まとめ

先読みが過ぎると子どもの失敗の経験を奪うのではないか、という話をしました。


失敗は大事な学びである。

失敗の責任をとる経験が大事である。


保育場面では集団生活のなかで経験させたいがさせられないことがあるように思います。一人ひとりのペースに合わせるには大人が足りないこともありますので。幼稚園は”降園”という終わりの時間に追われている感覚もあります。お迎えにきた保護者に「ちょっと待ってください」とは言えず、園を出発しないといけないんです。

ただ、だからといって管理の徹底した保育をしたら良いということは1ミリも思っていませんよ。集団生活の中でも必要な失敗はさせるべきです。

それができる保育者の心と時間の余裕がほしいですね。



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