忘れ物とお礼グルメ
ゴールデンウィークを利用して秩父から長野の方まで山を縦走した。
下山して、温泉に入って、登山靴を更衣室に忘れて、今日電話して着払いで送ってもらうことになった。
その温泉では財布も椅子に忘れて、慌てておっちゃんがもってきてくれたりしてたのに、まだ忘れ物があったとは。びっくりだね。
昔から忘れ物が異様に多い。
印象深いもので言えば、大学時代に鈍行で移動中、島根か鳥取の駅で(島根と鳥取の人ごめんなさい)駅弁と一緒に携帯を入れて捨ててしまった。そのことに京都に帰ってから気づいて、電話したら、なんとゴミ箱を調べて携帯を拾って着払いで送ってくれたことがある。(なんと、なんて言いつつ電話している時点でそれを期待している浅ましい根性なんだけどね)
お礼に生八ツ橋だったかおたべだったかを送った。
自分の住所だけ書いた手紙を出したら宛先がないよと郵便局長がわざわざ家まで持ってきてくれたこともある。お礼にチョコパイを持って行った。(大学生だったのでチョコパイは超美味しい高級菓子だと思っていた。)
新幹線に携帯を忘れたのも複数回あるし、夜行バスでスーツケースをもらい忘れたり、財布を店に忘れたのは複数回どころではないし、鍵は一番の鬼門で常に50%の確率で紛失する気持ちでいる。
年々マシになってきているとは思うものの、社会人になってからも鍵を旅先に忘れるのを4回以上はやっている。出来るだけ会社に合鍵を置くようにしているが、なくて玄関を業者にこじ開けてもらったこともある。
大学生の時になぜ自分はこういう人間なのか、脳やら遺伝子の本を読んで自分はどうやら発達障害(ADHD)なのではないかという結論になった。
大学生の時はなかなかめちゃめちゃな生活だったので精神科を受診することは叶わず、社会人になって1年目に受診した。
自分が発達障害なんじゃないかと思ってからは割とそれを救いに思ってきたところがある。
発達障害の診断がついて、お医者さんによく今まで頑張って生きてきましたね、大変だったでしょうなんて言われるのを妄想したりしていた。
そうなんです、大変なんです、でも努力してまともな人間になってきているんです、わかってもらえて嬉しい、なんてね。
精神科では、最初によくわからん木の絵を書かされた後「あなたは一つのことに集中するタチですか?」のような長大な質問項目に答えて、診察室に案内された。コロナ禍ということで、検査のようなものはやっていないらしかった。
診察室で、診断の結果あなたには発達障害の傾向はありません、と言われた。そして私の発達障害時代は終わった。
実際、どうなんだろう?私は発達障害だったんだろうか。
普通の人間ではないように思う。でもきっと、生きるのに障りがあるほどではないんだろう。
診断がついてもつかなくても、私の本性は変わらないはずなのに、こんなものに振り回されるのは馬鹿みたいなことだけど、多分大変なのによく頑張りましたね、と言って欲しかったんだろう。
クソみたいな構ってちゃんだな。でも、大変だったんだよ。
普通の人間として生きていかなければならなくなったことが一時は受け入れられなかったけど、結果的には私には良かったのかもしれない。
もう発達障害を理由に失敗を甘んじて許容することはできない、と思った。
よく効くお薬で生きづらさがなくなる可能性も無くなったので、この人生を受け入れるしかない、とも。
とはいえ、気をつけて忘れ物が治るなら精神科には行っていないわけで、普通の人間と診断されたからといって普通の人間になれるわけではない。
忘れ物は、治らない。
忘れ物をしても仕方がないだなんて甘えずに、自分はそういう人間なんです、手伝ってもらえると嬉しいですとあらかじめ周囲に言って助けてもらうしかない。
つまり、人にかなり助けてもらわないといけない人生が確定したので、人に好かれるようにしないといけないわけだが、これはまだ修行中。
あとはまあ、リカバリーの手段を増やすこと。スペアキーを量産するとかね。(ディンプルキーは高くて大変、、)
この人生を生きていくしかないのなら、絶望するのは非生産的なことだ。
買えるものなら買えばいいし、買えないようなものは親切な人が届けてくれているので大抵見つかる。
私がするべきことは、助けてくれた人にお礼をして、できれば次回も私や私のような人を助けようと思ってもらえるようにすること。
生きやすい世界は自分で作るしかない。
というわけで、登山靴のお礼に何を送るか考えている。
最近東京に引っ越してきたので東京ばな奈でもいいんだけど、あれって日持ちするんだろうか。
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