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スキをひいて、生きていく

前話「本日、涕泣(ていきゅう)日」
https://note.com/footedamame/n/na3b7a244a171


11月の昼に、滝のような汗。スポーツドリンクが飲みたい……。
一昨日、久々の多少満足いく仕事にすこし気が大きくなって、熱めのお風呂に長めに浸かったぼくは、その後身体を覚ましているうちにリビングのソファで寝入ってしまい、翌日見事に風邪をひいた。

カメラのバッテリの充電器が、部屋の隅で充電完了を示す点滅を続けている。「おーい」と何度もぼくを呼んでいるようにも見える。このままでは過充電でバッテリーの寿命が短くなってしまう…と思いながらも、取りに行く余裕がない。鼻水が止まらず喉も痛い。身体は指を動かすことすら億劫に感じられるほど重すぎる。

みっともなく生活の切り売りをしている自覚があるとはいえ、病気の姿を動画にしようとしたことはこれまでに一度も無かった。ただの風邪なんかよりもずっと苦しい病に苦しんでいる人が世の中にはいて、数日の我慢でなんとかなる自分の姿を自分自身で面白がる、もしくはそれを誰かに許してしまうことは、ぼく以上の耐え難い苦しみの中にいる人たちや、つらさをかならずしも笑い飛ばせない人たちをいたく傷つけるのではないか、と思ってしまうからだ。

なにより恥ずかしいのは、人は(というよりも誰よりぼく自身が)、病気のときほどわざとらしく強く振舞おうとしたり、未来を語ろうとしてしまうところだ。これは少年漫画病と呼んでも良い。
「治ることを信じて」「良くなったら」「いつかは良くなるので」そんなふうに、自己責任のただの風邪に対しても「避けることのできなかったアンラッキー」のように大げさに表現するであろう哀れなぼく自身をすでに頭の中でとてつもなく嫌っている。そんな醜く惨めな姿が少しでもこの世に表出してしまうのが、そんな自分になるのが、この上なく怖い。
これは病気に限らず、お金にかかわる悩みについても同様。そういったことの悩みは、動画にしないと決めている。

……が、結果風邪であることを話さないとしても、どうしても今日は動画を撮っておきたい。できるだけ高いクオリティで。一昨日の自分が感じた、動画への反響のうれしさを伝えたいと思ってしまう。
ぼくがある種さらけ出した「弱さ」は、美化されるでもなく、しようとするでもなく、ただ「弱さ」として温かく受け入れられた。これによってぼくが強くなったわけでもないし、なにかを手にした訳でもない。ただ身体に陽の当たる面積が少し増えたのだ。
別に全方位を光に照らされることが望ましいとも思っていないが、少し冷えたところが陽を浴びたような感じで、嬉しく心地よくなったのだ。

・11月20日の動画について
・久米悟、すこしずつ変わります
・【今後について】スタイル、変えようかな
・【これでいい】これからの久米悟
・久米悟の「ぼくがたり」
・鼻声でごめん。焚火の続き

もし、今感じていることを垂れ流してそれを動画にするとしたら、こんな感じのタイトルになりそうだ。サムネイルの文字は…シンプルな水色のゴシック体に、ぼくはヘラヘラと笑っている感じの表情だろうか。もしくは、ベッドで寝ている……?

なにか大きな出来事がなくても、人は日々を生きる。出来事そのものには意味なんてなくて、人がそれに勝手に価値を付けているだけ。そんな言葉を何度も聴いていたのに、ぼくは毎日「みんなが注目する何かを見つけなければ」、「置いていかれないようにしなければ」とただ焦っていた。

種があるところを耕すのではなくて、種を植えたいところを耕すのが仕事というものじゃないか。参入障壁の高い場所に今更飛び込む必要はない。多くの人がぼくを知ってくれている。ひとりで生きていくことは十分できる。ぼくはこの先も、ぼくの感じ方を携えて生きて行っても良いのだ。きっと。

「あかるいぼく」「元気なぼく」「人を笑わせるぼく」「面白いことを見つけたぼく」「努力するぼく」……。常にすべてを満たそうとしているぼくの虚像を、ぼく自身は気持ち悪くすら感じ始めていた。
ひとつひとつの要素は間違いなく良いものだけれど、輝いているものしか見えない、見せようとしない、というのはどこか胡散臭くて怪しいのだと今更気づく。こんなぼくであったにも関わらず動画を見続けてくれていた人たちは、きっとぼくがそんな虚勢を張っていたことを既に見透かしてそのままにしてくれていた優しい人なのか、もしくはぼくのことを本当にそういうやつだと思っていたか、のどちらかなんだろう。後者は後者でぼくの味方でいてくれたことには変わりないが、この先もぼくを支えてくれるのだと思える自信がない。ぼくの信頼不足なのかもしれないし、自業自得かもしれないが。

そんなこんなで、これからは無理せず「リアル」を発信していくことにしよう、と風邪の頭でぼんやり考えてようやく結論が出ようとしていた直前。
ぼく早速無視できないひとつの矛盾にぶち当たる。

「リアルな」という言葉を聞くと、飾り気がなく、写実的で、あるがままをそのまま表現しているのだと理解はできる。が、「これがぼくのリアル」とカメラを通して表現するものは、はたしてほんとうに「リアル」なんだろうか。

人間は真の「リアル」には耐えられなくて、「これがリアルであってほしい」と丁度良く思えるあたりを見つけてはそれをリアルだと思い込むようにできているのかもしれない。見る側だってそうだ。「リアル」はつまらないから、限りなく「リアル」っぽく見えるものを好んでいるのかもしれない。広告だって、ナチュラルメイクだって、俳優の演技だってそうじゃないか。 これからわざわざカメラを回して「実は、これまでこんなことを必死に考えていて、だから実はこれがぼくのリアルなんです」なんて言わなくても、視聴者からすれば動画を休んでいたあの時期こそがぼくの"黙して語るリアル"なのだ。ぼくが正確さを求めてあれもこれもと語れば語るほどすべてが嘘っぽくなる。相手の感じ方に委ねて、わざわざすべてを説明する必要もないのでは?と。…いやでも、あれこれ思考してるとき、好きなアーティストのアルバムに附属しているライナーノーツや雑誌のインタビューを読むのは結構楽しい。これって説明ありきの楽しさだよな。……う〜ん。こういう時って、どうすればいいのか。

出来の良さにこだわらず、動画の撮影と投稿は淡々と続けてしまって、それについたコメントをぼくは「ぼくのリアル」として真摯に受け入れるべきなのか……?
もしもそのサイクルで作る動画が極端に面白くなくなったら、見る側は「これなら別の人の動画でもいいや」となるんじゃないだろうか。この前の動画の評判が良かったのは、あくまで「普段と違うテイストで、これ"も"いい」だったにも関わらず、ぼくは「これ"が"いい」と耳障りの良い声ばかりを抽出して、やるべきことから逃げようとしているのかもしれない……。

……おっと、いけない、また、考えすぎる方に頭が向かっている。

昔、農業に携わる親戚のおじさんが、「鍬を入れてみたらわかるんだよ。良い土かそうじゃないか」と言っていた。ぼくはいったい何を怖がっているんだろう。ミミズを掘り起こしたら?穴の中で眠るモグラを殺したら?そんなこと、滅多にある訳がないじゃないか……。
やり直しがきかないほどの失敗なんて無いのだから、やってみるしかない。
これからも様子を見ながら小出しにして、今回の焚火動画は「撮る動画の選択肢が少し増えた」程度に考える方が良いのかな…………。


<続きを読む>
『てのひらからあふれるかんじょう』
https://note.com/footedamame/n/n70621d5606d4


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