11年前、永木亮太との出会い

 2010年7月、南アフリカW杯による中断明けの初戦、鹿島アントラーズは湘南ベルマーレをホームに迎えた。ようやく再開したJリーグで昇格組と戦う王者は、義務とも言える勝ち点3を積み上げた。
 W杯期間中は、岡田監督による篤人の扱いに怒りを覚えて日本代表の躍進には気が向かず、李正秀のゴールとオリベイラ監督の解説に癒されながら、僕たちの日常が帰ってくるのを待ちわびていた。
 しかし湘南戦は、再開の喜びも王者の威厳もない、気怠いだけのウノゼロだった。覚えていることと言えば、野沢拓也の華麗なミドルと、もうひとつ。

 その日は、1人の大学生のデビュー戦だった。
 今にして思えば運命的だった、と言うつもりはない。あの時の僕も、彼のことを強烈に意識していた。当時書いたブログを見返すと、苦戦の要因として彼の名前が記されていた。
 永木という選手にもいいところを潰されていた、と。
 強烈な速さや上手さはなかった。特別指定選手であることも、デビュー戦であることも、試合後に知ったくらいだ。でも、試合後に彼のことを検索してしまうくらい、その姿が目についた。
 相手チームの大学生でありながら意識せざるを得ないほどの存在感を放つ、稀有な存在だったのだ。

 だから2016年の開幕前、永木が鹿島に移籍してくると聞いた時、何の違和感もなかった。
 僕は、鹿島らしさを紡いでいくために、ベースは生え抜きとブラジル人選手で、他クラブから移籍加入する選手は文字通り補強である、と思っている。彼の獲得も当時小笠原と柴崎が担っていたボランチの守備強度を増すためだっただろう。
 でもそれ以上に、最初から鹿島のユニフォームがしっくりきた。ユースから上がってきた4人と並んだ入団発表会でも、彼はずっとここにいたようだった。
 もしかしたら、2010年のあの日からいたのかもしれない。

 プレー面では、最初から順調とは言えなかった。
 ザーゴが監督になると決まったとき、鹿島のサッカーの言語化や再現性ということが盛んに言われたことに、僕は納得できなかった。それはこれまでもずっとあったじゃないかと。
 例えば、右サイドからボールを受けたボランチは体を開き、前や左へのパスの選択肢を持つこと。
 だが、2016年4月の湘南戦、鹿島に移籍後初の先発だった永木は、右から受けたボールを脇目もふらずワンタッチで右サイドのスペースへ流し込んだ。それは湘南のサッカーであり、鹿島でやることではない。
 もちろん彼には湘南で築いたキャリアとスタイルがある。それを保ちつつ、鹿島のやり方に合わせるのは苦労もあっただろう。

 しかし考えてみれば、2010年の永木が印象に残ったのも、プレーではなかった。それ以上に雰囲気や立ち振る舞いといった曖昧なものが、強烈なインパクトだった。
 プレーはいくらでも教えることができるし、監督が変われば変わる部分も大きい。
 でもずっと変わらない、だけど言葉にするのが難しい「鹿島らしさ」を持ち、伝えることができる存在は貴重だ。
 11年前に出会い、いつかそうなるだろうと予感した、いまの永木亮太である。

 カシマスタジアムではじまった彼のキャリアが、カシマスタジアムで終わるかは分からない。
 きっと湘南にも、彼の鹿島での初先発が湘南戦だったことを必然と感じ、いつか帰ってくると予感している人がいるだろう。僕は望まないけど、悪いとも思わない。
 でもせめて、また彼と一緒にタイトル獲得を喜ぶまでは待ってほしい。
 11年前の大学生も、11年後のベテランも、身体中から飽くなき勝利への渇望をほとばしらせている。
 もっと、もっと。
 永木亮太の走りは止まらない。

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