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人をモノのように扱うということ 性加害騒動からみる私たちの心

連日のゴシップ的な性加害報道にずっとモヤモヤしています。気持ち悪いとも思うけれど、人格非難するのも違うように思う、人を人として扱うべき社会的規範の変容がそこにあるのではと思います。

1.人は人をモノのように扱う生き物である

性加害の議論となったとき、一人の男性から、確かに女性の扱いが人としての扱いではないという議論はあるだろうが、多くの男性も社会において、モノのように選別(学歴、就職、人事、評価、贔屓、疎外)され、代替可能な人員として、総理大臣であれ、部長であれ、非人間的に扱われることに日々傷ついているのであって、(性犯罪行為に至る問題は別として)女性に対するモノ的な扱いだけ重きがおかれすぎるのには違和感があるという言葉がありました。

女性差別の問題の扱いを男性間や男女間における男性への不当な扱いとどう比するかというのは、議論の余地はありますが、基本的には人は人をモノとして扱いがちなのではないかというのは、とても大事な視点かと思います。

カスタマーハラスメントに代表されるような威圧的言動のとき、人は相手の存在の歴史や心に重きをおかず、いわば自分に従属すべき属性を備えた人間という名のモノとして扱っています。攻撃を伴わないときも、公共の場で隣り合う他者、社会的関係はあれどごく薄いものである場合などは、我々は相手を「女子高生」、「サラリーマン」、「(礼儀を知らなそうな)若者」、「(かわいそうな)障害者」、「(権限がなさそうな)女性職員」などと外形的にカテゴライズして、勝手に不愉快となったり、文句を言ったりしています。それはやはり人をモノとして見るに近い行為です。そこには悪意はなく、往々にして無自覚です。

モノ的な眼差しとヒトとしてのrespectの境目は、どこにあるのかというのはとても難しいと思いますが、「ぶつかってごめんなさい」「いえ、お怪我はないですか」とやりとりすれば、それはもう人間的な接触のように思います。

社会的関係のある間柄でも「あ、この人は今はじめて私をヒトとして扱ってくれたな」という瞬間は、皆さんいくつか経験したことがあると思いますし、形式的には無礼といえるレベルではないものの「ああ、この人は自分を雑にしか扱わないのだな」と感じて、心にかすり傷がつくことは、老若男女を問わず、社会的地位に守られている人以外には、多くの人に日々あるものだと思われ(女性の方がよりその機会は多いでしょう)、かつそれが「世間の荒波」とされてきたものでもありました。

私自身も無防備かつ他者とのかかわりにおける思慮のなさに無自覚に、社会人になってしまっていたと過去を振り返ると思います。

多忙であったり、重圧を抱えていたりする中では非常に難しいことですが、「私はあなたをヒトとして扱っています」という心と言動を常に備えられる人でないとリーダーとしての資格を保持することが難しい世の中に今変わろうとしているのを感じます。

2.承認欲求と性の問題

人にモノとして扱われないように、経済的に困窮しないようにという防衛の心と表裏一体をなすのが承認欲求であり、そのベクトルは社会的な成功のほか、「モテ」への渇望にもむかっています。

この「モテ」というのはとても残酷なもので、承認されるために「モテ」要素を獲得しても異性からは逆に「モノ」として扱われるという沼が待っています。男性をスペックで判断し、金銭をたかる港区女子の物語では、ギャラ飲みのゲームの中で自分がモノとして扱われる悲劇と、それに抗うために他者もモノとして扱うことで心を失うさまが描かれています。
週刊誌へのリークが二毛作かどうかという個別の議論はともかく、どのような属性の女性(風俗嬢も含めて)も性的なモノとして扱われることの悲哀を感じ、ヒトとしての尊重を求めているというのは事実だと思います。

男性の場合も「非モテ」であるというのは、社会的な評価との相乗効果もあるため、「きしょい」のひとことに人格否定として重く傷つき得るというのは女性として心に留めなければならないことだと思っています。
女性としては、「自分が受入可能な相手以外の男性の性欲自体が根本的にとても気持ち悪い」というある意味生物的な防衛心があり、好き嫌いも動物的に気まぐれであったりするので、そのことで男性をモノ化し、蔑むということに無自覚な部分が強いと思います。自分が傷ついている人間が、その根源たる異性をヒトとして扱わないというのは、避けられないことで「きしょい」と思っているおじさんから雑に扱われたとて、自分の胸にも手を置かねばならないでしょう。

松本さんの場合も、社会的な成功とそれに伴う若い頃からのモテが、加齢により衰えたことへの受容がなく、威圧的言動が発動されたのかと思います。男性の性衝動と自尊心の問題は、「モテ」と性衝動が別である女性には理解し得ない部分があり、「松本人志きしょい」か否か問題の壁は、ここにある気がします。

3.男女平等とP活とボーイズクラブの問題

世知辛い世の中で誰もが自分以外をヒトとして尊重する十分な余裕も自覚もない中、女性は男性に比してその性別故にモノとして尊重されない機会が多いと感じ(内閣府男女共同参画社会に関する世論調査電通の調査が参考になります。後者ですと、男性優遇とは感じないと考える男性割合が比較的高い傾向にあります。)、男性は社会的地位獲得と非モテの重圧に苦しんでいます。

男女ともに異性全般を属性で嫌悪することを卒業しなければならないのですが、「モノ」としての扱いが権力・支配欲と紐づくことからして、男女問題としてはやはり権力社会構造的に女性が劣位にある状態を解消していくということは忘れてはならないと思います。

女性の社会的成功者の比率が増え、女性も女性による業務の評価によって社会的評価を勝ち得る機会が増えれば、非モテの怨嗟の対象となるような女性性を活用したあざとい競争も相対的には減っていくのではないかと思います。

また、松本人志案件のようなホモソーシャルなボーイズクラブ的支配構造自体も、吉本興業や芸能界のみの問題ではなく、政治含めて多くの組織体に内在しているのですが(コロナ禍とたばこ部屋がなくなったことで健全化している部分は大きいと思います)、本件を契機に少しずつ解体が進んで、男性自身も男性による支配を受ける機会が減ると良いと思っています。

4.社会の変化の早さと遡及適用

本件で感じるのは、世の中の変化の早さです。
篠原涼子さんのごっつええ感じ時代を振り返る2018年のWeb記事では、世の中の変化を語りながらも、2023年の世論のような調子はありません。
今後も性的逸脱のみならず、言動(挨拶とスカートは・・など)に適用される道徳観念は変容し、攻撃を受ける対象も拡大していくと思います。本来は、社会の色々な階層ごとに様々の倫理観が多層的にあって良いと思うのですが、多くのコンテンツが誰でも閲覧可能で、スポンサーシップを通じてグローバリゼーションに直結してしまう世の中で、なかなかそうもいかなさそうです。

刑法では、行為後に制定された法により過去の行為が処罰されることはないのですが、社会規範の変容に関しては、過去の行為を現在の倫理観で断罪されるということがままあります。刑事罰が適用されるもの以外について、どこまで遡及されてよいのかというのは、記憶に新しい小山田圭吾さんキャンセル騒動(世界はなぜ地獄になるのか 橘玲著 小学館)などでも考えさせられましたが、社会的制裁の歯止めとしての規範を週刊誌にどう求めるか、世論として形成していかねばならない課題だと思います。

(関連事項) 同意・不同意の難しさ

本件関連事項として、改めて性的同意の難しさも感じました。
当事者にとっての性交「同意」とは : 性暴力被害当事者の視点から望まない性交が発生するプロセスをとら える (2019 齋藤, 梓; 大竹, 裕子)、性行為と同意: 格差構造下における自由と強制 (2019 金山直樹)などには、相手との関係性において逃げ道を失わされつつ、「不本意な同意」を行うプロセスや、それを法廷で立証する難しさが現れています(不同意性交罪では、検察側に同意がなかったことを立証する責任があります)。

飲み会に一人足りないからどうしてもといわれたとき、こちらが応じれば相手の問題が解決すると感じると、飲み会だけならと同意。一度OKを出すと、「これをOKしておいて、これをNOというのは、失礼ではないか、考えが足りていないのではないか」などと攻撃されるというのは性暴力のみならず、日常業務や家庭内のモラハラなどでも多用される手口です。

性的同意を取得するときのマナー、そして相手の尊厳を否定するわけではないが、この要求は拒否するというはっきりとしたNOをどう言えるようになるか、「なぁなぁ」と「やんわり」ではもう乗り切れないことを教育の現場などで伝えていくことで、少しでも新たな加害者と被害者を減らしていけることを祈ってやみません。


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