ミュージシャン・短編小説 ピアノの一子さん

 一子さんが笑うと頬から顎の線がミッキー・マウスの恋人のようにハート型になった。
一子さんは黒いハイネックのセーターに、黒いジーンズを穿いていた。ポニー・テールにした髪が午後の日差しを浴びて少し赤っぽく見えた。その姿が妖精のようだった。でもいい事をする妖精なのか、悪い事をする妖精なのかは分からない。僕がそう言った時、一子さんは「さあ、どっちでしょうね」と言って笑ったのだ。
 一子さんはハーブ・ティーを入れたマグ・カップを僕にくれた。でも自分はカップをテーブルに置いたままピアノの椅子に座り、片手でなんかのメロディーを弾いていた。休みなくリハーサルを続けていたせいで少し頭がぼんやりしていた。
 「今年は雨ばかり降ったけど、やっと晴れの日が続くようになりましたね」と僕が言うと、「私、雨は好きだけど、もう飽きたわ」と言った。
 僕はハーブ・ティーを一口啜った。一子さんはピアノの手を止めて、僕の方をちらちらと見ていた。不思議な香りがした。今までいろんなお茶を飲んだ事があるけど、そのどれとも違っていた。なんの香りだろうと考えたけど、分からない。強いて言えば、海の香りに近いかもしれない。
 「これは、なんのお茶ですか?」と聞くと、一子さんはうっふっふっ、とまたハート型の頬をして笑うだけだった。
 その瞬間僕は深い海の真っただ中に居た。
 あまり深いのでほんのわずかしか光が届かなかった。水の中なのに、呼吸は楽だった。水圧の圧迫感もなかった。まるで上も下も左右も無い空間の真ん中に浮かんでいるような気分だった。僕は一人ぼっちだった。魚も余り深すぎて来ないようだった。まったく何でこんな所に来てしまったんだろう?と僕は溜め息をついた。とにかくもう少しリハーサルをやって、曲を全部かたずけないといけないのだから、こんな所で暇をつぶしているわけにはいかないのだ。
 どっちを向いても同じように殆ど真っ暗なだけで、どっちが上なのか下なのかも判らなかった。でも微かに明るく見える所があって、それが海面からの光のようだった。僕はそっちに向かって泳ぎはじめた。汐が僕の体を撫でて行った。髪が心地よくなびいた。気持ちいい春の日のそよ風みたいだった。
 しばらく行くと、大きなマンボウが漂うように泳いでいた。マンボウは珍しそうに寄って来て、行ったり来たりしてながら僕の周りを回った。どうやらあまり平たい体の両側に目が付いているものだから、一遍に両目で僕を見る事が出来ないらしい。それで右目で見たあとは左目というふうに、僕の周りを回りながら片目づつ交代で見ているのだ。
 上に向かって泳いでいるうちに大分周りが明るくなってきた。僕は時計を見た。親父に貰った防水の時計は海の中でもりっぱに動いていた。二時半だった。リハーサルは四時迄だから、早く戻らないと時間がなくなってしまう。僕は急いだ。
 海面は間近になり太陽の光がカーテンのように揺れていた。小さな魚が雲のように群がっている所を僕は突っ切った。魚の雲の中に僕の体の幅に道ができた。誰が合図をしているのか、魚達は同時に一斉に向きを変えた。その瞬間、鏡の粉をちらしたように鱗が光った。
そして僕はやっと海面に顔をだした。
気が付くと僕はマグカップを持ったまま居眠りをしていた。僕は目をぱちぱちと瞬かせ犬のように、ぶるっ、と一回首をふった。一子さんは相変わらず片手でピアノを弾いていた。夢を見ていたらしい。でも夢にしてはいやに現実的だった。汐の流れの感触なんかがまだ体に残っていた。
 「僕、居眠りしていたみたいですね」と言うと、一子さんは振り返ってにっこりと微笑んだ。「大分長い間ですか?」と聞くと「ほんの少しよ」と応えた。
 そのあと一子さんが「気持ちよかった?」と聞いたけど、それが居眠りの事を言っているのか、海の底の事を言っているのか僕には判らなかった。
 「さあ、次の曲をやりましょうか」と言いながら一子さんは譜面を出した。
 僕は時間が気になって時計を見た。防水の時計の内側が水滴で曇っていた。
 僕達はブラジルのカンドンブレを題材にした曲を練習しはじめた。僕がテーマを歌い終わると、そこから急にフリーになりアフリカの黒魔術のような、おどろおどろしい世界が始まるのだ。フリーになった瞬間からの一子さんの迫力は大したものだ。左手で最低音を弾きながら右手は金属的な不協和音を重ねていく。その手の動きがまるで魔女の儀式のようだった。
 全部の曲をやり終わった時、まだ少し時間が余っていた。
 「また、ハーブ・ティーでも飲みますか?」と一子さんが聞いた。
 「先刻のとは違うのがあるんですよ」
 僕は「ええ、頂きます」と応えたけど、すぐに後悔した。さっきのお茶が居眠りした事と関係ある気がしたからだ。一子さんは台所に行き、お湯を沸かす音が聞こえてきた。そして別のカップに入れたハーブ・ティーを持って戻って来た。
 僕はカップを受け取ると用心深く香りを嗅いだ。先刻とは違う、不思議な香りがした。深い森の香りだった。そして一瞬迷路のような森の幻を見た。あるいはそんな気がした。
僕はカップを持ったまま飲むのをためらっていた。
一子さんもお茶には口を付けず微笑みながら僕を見ていた。
 その目がいたずらっぽく輝いていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?