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『胡桃の箱』24 暗号解読の鍵

一九三九年の晩秋、雪乃は幼い茂をおんぶしながら冬支度をしていた。
夫のオーバーコートの綻びを繕った後、可愛い息子のために空色の毛糸でセーターを編み始めた。
毛糸が余ったら、次は何を編もう。帽子に靴下、ミトンもいいかもしれない。そう考えるだけで、幸せが込み上げてくる。

北国の寒さは厳しいが、三人で過ごす初めての冬。その備えをするのは、楽しさでいっぱいだった。
雪乃の口からは、自然と歌がこぼれてくる。


北風さんが 吹いている

粉雪さんも 降ってくる

坊やのお家に 冬がくる

みんな真っ白 真っ白け


茂は母の背中で、母の歌を聞きながら、すやすやと眠っていた。家の外で風がどんなに吹こうが、雪がどんなに降ろうが、母の背中は温かかった。

けれどこの時、遠く離れたヨーロッパでは戦争が始まっていた。やがてその戦争は、親子の小さな幸せにも、影を落とすようになる。

 ある日、夫のミハイルは、函館の画商に絵を見せに行くために、自分の作品を残らずトランクに詰めて出かけた。しかし実際は、ヨーロッパでの戦況を探るために、密命を帯びてスイスに飛んでいたのだ。

スイスで彼は、オルゴール工房の徒弟になり、オルゴールを作りながら情報の収集に努めた。手先の器用なミハイルは、瞬く間にオルゴール作りの技術を習得した。

しかし腕前があがるものの、日本に残してきた雪乃のことが気がかりで仕方がない。とりわけ生まれたばかりの茂のことが。
息子は自分の顔も、覚えていないだろう。そう思うと彼は涙にくれた。何とかして、息子に自分の思いを伝えられないだろうか。

そこで、ミハイルは特別なオルゴールを作り、自分の写真を忍ばせた。このまま会えなくなったとしても、茂にオルゴールを届けることができたなら、彼に父親の顔を確かめさせることが出来るだろうと。

 大戦は終わった。しかしミハイルの任務は、終わらなかった。米ソ冷戦という新たな戦争が始まり、彼は諜報活動を続けることになった。

日本とソ連が国交して一〇年目の年、彼は文化交流事業団の一員として、再び来日した。  
暫くぶりの日本は、すっかり別の国になっていた。だが礼文島は、どうなっているのだろう。
まだ雪乃と茂は、あの島に住んでいるのだろうか。この任務が終われば、会いに行けるだろうか。
淡い期待を抱きながら、ミハイルはオルゴールを持ち歩いていた。

 しかし運命は、残酷だった。

ミハイルは諜報活動を続けるも、敵対する組織に情報を傍受されて解読されていることに気づく。追い込まれた彼は、暗号を変更しなければならなくなった。
そこで、誰も知らないメロディーを、新しい暗号解読の鍵に使うことを思いつく。そしてミハイルは、自作のオルゴールを、情報のやり取りをしていた一人の日本人に託した。

息子のために作ったオルゴールのメロディーは、自分以外には雪乃しか知らない。切迫した状況を打開するためには、これを利用するしか手がなかった。
いつか任務が完了したら、その時にはオルゴールを息子に届ける事ができるだろう。
そう自分に言い聞かせながら、彼は任務を遂行した。


はるみと茂は、何度もオルゴールを聴いていた。

「今さらだけど、おじいちゃんとおばあちゃんが出会わなければ、私たち、いなかったのよね」
「そうだな」
「おじいちゃんもおばあちゃんも、過酷な運命に押し潰されずに生き抜いて、凄いよね」
「俺たちには、凄い人達の血が流れてるんだな」
「しぶとく生き抜く力みたいなね」
「そうか、しぶとさか。確かに受け継いでるな」

はるみは、祖父母の様に強く生きていきたいと思った。
「私たち、ミハイルさんと雪乃さんの遺伝子を受け継いでいるから、何があってもへこたれずに生きて来れたのかもね」
「へこたれない。あきらめない。くじけないか」

「このオルゴールがパパの手元に届いたのは、きっとミハイルおじいちゃんの執念だと思うよ。息子に自分の顔を見せたかったんじゃないかな」
「そうかもな」

茂はまた、オルゴールのネジを巻いた。

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