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『胡桃の箱』26 地下のバーで
その年の冬、中国の武漢で発生した謎の感染症のニュースが、世界中を駆け巡った。
年が明けると、政府の用意したチャーター機で日本人が帰国したり、横浜港に寄港したクルーズ船内で新型ウィルスの感染症が流行したりで、日本中が大騒ぎになった。
店頭からはマスクが消え、誰もがあの手この手でマスクを手に入れる方法に、知恵を絞るという変な日常になっていた。
そんな二月の下旬、源ちゃんから電話がかかってきた。
「春人、今東京来てるんだけど会えないか?」
「大丈夫だけど、なんでまた急に?」
「実は今日、東京ドームにライブを観に来てたんだけど、急遽キャンセルになってさ」
「ああ、なんかニュースになってたね」
「よりによって今日、政府から大型イベントの自粛要請が出たんだよ。コロナの感染拡大を防ぐためだとさ」
「明日だったら良かったのにね」
「やっとチケット取れたのに、当日キャンセルってさ。リハーサルの音も、外まで聴こえてたんだよ」
「うわあ、かわいそ過ぎる」
「まったくだよ。でもさ、関係者もたまったもんじゃないだろうな。場所代とかチケット払い戻しとか、大損害だよな」
「保険には入ってるだろうけどね」
「でさ、折角こっちに来たから、一緒に飲まないか?例の猿渡が行ったっていうバーにも、行ってみたくてさ。それに春人には、まだ借りを返してなかったから、奢らせてよ」
「いいの?ありがとう」
僕は地下鉄で、店に向かった。ビル横の狭い階段を下り、小さな重い扉を開けると、ジャズの生演奏が響き渡る。
薄暗い店内を見渡すと、カウンターで水割りを飲んでいた源ちゃんが、こっちに向かって手招きした。
「よう、春人。こっち、こっち」
僕は、源ちゃんの隣に座った。先日、佐々木と来た時と同じ席だった。
「今日は残念だったね」
「そうだよ。去年から楽しみにしてたのに、がっくりだよ。」
「普通にライブやってる人も、いるけどね」
「ああ、でも感染者が一人でも出たら、ネットで叩かれるしね。仕方なかったんだろうな」
「ほんと、面倒くさいな」
僕らは、ため息をついた。
眼鏡のマスターが、ハイボールを作りながら僕に話しかける。
「以前、佐々木さんと一緒にお見えになりましたよね」
「あ、はい」
「ところで、佐々木さんが持って帰られた箱って、どうなったかご存知ですか?」
豆をつまんでいた源ちゃんの手が、止まった。僕は、源ちゃんの心中を察した。
「あの箱はオルゴールで、今は白石さんが持っているみたいですよ」
「そうでしたか。あれから佐々木さんも来られないし、持ち主も現れないし、どうなったのか気になっていたんですよ」
「そりゃ、そうですよね。気になりますよねえ」
そこで、会話が途切れた。しかし話さないからといって、気まずい訳ではない。
僕らは黙ったまま、琥珀色に輝くグラスに神経を集中させて、酒を味わった。グラスの感触、ウィスキーの味、香り、氷の音が心地良かった。
店内の照明、音楽、客の雰囲気、マスターの佇まい、全ての空気が一つに混ざり合い、心がほどけていく。
おもむろに、源ちゃんがマスターに話しかけた。
「えっと、ところで店名の『眼鏡男爵』って、マスターの事ですか?」
「ああ、私のご先祖がね、実は男爵だったんですよ」
「へえ、凄いですね」
「何でも、日清戦争の時に武功を挙げたとかで、位を頂戴したそうなんです。まあ、名前だけでも、あやかりたいと思いましてね」
ふと僕の頭の中に、あるコメディアンの姿が思い浮かんだ。
「あの『髭男爵』も、男爵の子孫なのかな?」
「ああ、『ルネッサーンス』ってやつ?」
「そうだね。懐かしいな。『ルネッサーンス』」
僕と源ちゃんは芸人のギャグを真似て、グラスとグラスを合わせた。
「そうだ、子孫で思い出したんだけど、冬爺がさ、変なこと言うんだよ」
「なんて?」
「俺が、ミハイルって人の子孫だとかって」
「ミハイルって、誰?」
「分かんないけど、もしかしたら白石はるみのお祖父さん」
「えっ?なに?どういうこと?」
それから僕は、詳しく説明した。
「そっかあ。春人も、いろいろと複雑だなあ」
「俺さあ、自分の父親のことが知りたくてさ」
「そうだよなあ」
「どうしたらいいかな?」
「そうだなあ」
源ちゃんは、言葉を捜して黙り込んだ。
しばらくすると、耳に馴染みのあるピアノのメロディーが流れてきた。僕らはピアノの方に、体の向きを変えた。
男前のピアノマンが、囁くような声で歌い出す。その優しい歌声に、危うく泣きそうになったが、なんとか堪えた。
一番はピアノの弾き語りで、二番からはウッドベースとドラムが加わる。至近距離での生歌と生演奏は、鳥肌ものだった。
ウイスキーに酔っているのか、歌に酔っているのか、心と体に酔いが一気に回った。
演奏が終わると、店中の人が一斉に拍手をした。その後も演奏は、続いていく。
横を見ると、源ちゃんは泣いていた。
「ちょっと源ちゃん、泣いてんじゃん」
「うん、昔観た映画のこと思い出してさ」
「俺も思い出してた。ほら、うちで一緒に観た『メンフィスベル』。あの映画で使われてた曲だよ。何て曲だろう」
僕は、スマホで検索した。
「ああ、『ダニー・ボーイ』って曲だ。映画で歌ってたのは、ハリー・コニックjrだって」
「『メンフィスベル』か。いい映画だったな。なんか男の友情とか、格好良さとかが詰まっててさ。また観たくなったなあ。ネトフリで観れるかな」
「うちで観ればいいじゃん」」
「そっか、久しぶりに夏子さんの『金曜名画座』にリクエストしようかな」
「母さんも、喜ぶよ」
「そうだな」
「ねえ源ちゃん、いろいろあったけど、感謝してるよ」
「急に、どうした?」
「源ちゃんが今までどおり、うちの隣で仕事してくれるから助かるって、母さんが」
「俺の方こそ、秋人さんと夏子さんには世話になったから、当然だよ」
「これからも、いろいろ世話になるけど」
「いやあ、こっちこそだよ。じゃ、そろそろ出ようか?」
「うん。今日はありがとう。ごちそうさま」
「俺もお陰で、いい夜になったよ」
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