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一粒の麦  -井深八重のこと-

 朝靄ただよう富士山麓の早朝、わたしたちは昨晩泊まったホテルの広い敷地を散策していた。宿泊施設や、ポニーがいるふれあい動物園や、お土産屋のログハウス、体験施設などが川から山にかけてその一帯に散らばっていた。けれども朝が早すぎて、どこも空いていない。前日に急遽予約したふたりで一泊八千円の宿には、もちろん朝食はついていなくて、わたしたちは高速のパーキングで美味しいものを食べよう、とお腹を空かせながら歩いていた。

 いい加減にホテル探検も済んで、わたしたちは車に乗り込んだ。その日は、昼には夫の実家に着いていなくてはならない予定だった。カーナビをセットして、駐車場を出、木々の茂る静かな道をほんのすこし行ったときだった。

 道の脇の青い看板に白抜きの文字、「神山復生病院」。車はそのまま進んでいく。どうしてか、その道端の病院の名前にひっかかった。どこで見た名前なのだろう。御殿場、神山復生病院? 道は木々に遮られてほの暗い上り坂に至っていた。

 「八重さんだ!」そう閃くと、夫に説明してUターンして貰う。そう、偶然にもわたしたちが泊まったホテルの向かいの病院は、曾祖父の従姉妹、井深八重がハンセン病の患者の看護に、その人生の残りをすべて捧げた場所だった。

 井深八重の人生には、深い断絶された溝がある。彼女が、22歳にしてハンセン病だと誤診された時を境にして。
 
 八重の伯父は井深梶之助といって、戊辰戦争のときに松平容保の小姓をし、その後明治六年にヘボン博士やブラウン氏のもとでイエスキリストに救われたひとで、明治学院の総理をしていた。八重はその弟、井深彦三郎の娘として明治30年に生まれた。両親が離婚し、父が大陸運動に関わり中国に渡るなど多忙であったため、伯父の家庭で育てられた。梶之助の日記を読むと、彼の下の子どもたちと共に、子どもの頃の八重の名前が出てきて、一緒に散歩に連れていったことなどが書いてある。

 梶之助一家は、芝白金の明治学院構内に居を構えており、そこには八重の祖母にあたる八代がいた。八代の兄は、会津藩の異端児な国家老、西郷頼母である。「祖母に厳しくしつけられた」と八重は言う。伯父の梶之助の自伝にも、似たようなことが書いてあった。八代は家老の家に生まれた、誇りの高い家刀自であったのであろう。

 八重はとても綺麗なひとだった。「八重ちゃんは憂い顔のほっそりした人だった」とわたしの曾祖母は彼女のことを評していたそうだ。周りの少女たちは、横浜のフェリス女学院に通ったが、八重はなぜか遠い京都の同志社を選んだ。同志社は同郷の新島八重の夫が作った学校である。新島襄は、伯父の梶之助とも繋がりがあった。そこを卒業して、長崎の女学校に英語教師として赴任した。

 聡明で美しい八重が、人気の先生として生徒に慕われ、充実した日々を送って一年が経とうとした頃のことである。八重の体に赤い斑点のような湿疹ができた。勧められるがままに診察を受けてしばらくすると、親族のいる東京から長崎まで、迎えの者がやってきた。八重は突然学校を退職するように強制される。何が何やらわからぬままに、八重は東京に、そして東海道本線の二等車を貸しきりにして、伯父と伯母に伴われ、御殿場に連れてこられた。

「わたしがこちらに参りましたのは、
大正8年の夏、丁度ドルワルドレゼー師が
五代目院長として就任されてから
二年目の夏でした。
何処へ行くとも教えられぬままに
着いたところは、何となく薄気味の悪い
これがひとの住み家なのだろうかと
思われるような、木立に囲まれた
灰色の建物が立ち並ぶ一角でした。
やがて木立の間を行くと、
一軒の洋館があって、通されたのは
院長室でした。黒のスータンに
白髪温顔の外人は、
初めて見るカトリックの司祭でした。
私が院長です、と挨拶され、
付き添いの伯父伯母との
会話のなかから、
ここが癩の病院であること、
そして私が何のためにここに連れて
こられたかを、初めて知ったときの
私の衝撃!それは到底何を持っても、
表現することは出来ません。」

 八重が通された洋館は、今もまだ残っていた。広いポーチのある植民地様式の、屋根の高い平屋の洋館で、青みがかった緑色をしている。そろそろと入ってきた神山復生病院の敷地は、とても広く、人影はなかった。ゆるやかに傾斜した敷地には、白いマリア像が立ち、木立はそのままで、皇族の植樹の看板がいくつもあった。すこし奥に進むと、八重の頃のものではない、建て替えられたベージュ色の病院の建物があり、いまはもう普通の内科や皮膚科をしているようだった。そこからまだ奥に進むと、その洋館が林の中に潜んでいる。中は資料館になっており、電話をして見学を依頼できるらしい。見学可能になる9時まで、まだ40分ほど時間を潰さねばならなかった。わたしたちは、閑散として人の気配のない敷地内を散策しはじめた。

 八重のハンセン病感染が判明したとき、一族は親族会議を開いたという。わたしの曾祖父は、その頃信州上田の蚕糸学校で英語の教授をしていたのだが、要件も告げられずに突如東京に召集された。東京から帰ると、何があったのかもわからずはらはら見ている曾祖母に一言もきかずに、曾祖父は書斎に隠ってしまって出てこなかったという。
伯父の梶之助は、キリスト教界の有力者であった。その姪が、熾烈な差別を受けるハンセン病にかかったのである。一族の世間体をどう守るのか、キリスト者としてどうすればいいのか、その会議の結果が、八重を御殿場の、カトリックの病院に入れることであった。客車を貸し切りにして、誰にも気づかれないように。八重はその後、カトリックに改宗して、プロテスタントの信仰を捨てている。

 八重はその日から、ひとり絶望の只中に取り残された。人生の華やかな表舞台から、突然感染者がでた一家が心中することもあったような、遺伝性の、生きたまま体が朽ちていく不治の病だといわれて、誰にも知られず薄暗い山麓の病院に閉じ込められたのである。
八重の人生にこの断絶がなければ、きっと彼女は従姉妹たちのように、良縁に恵まれ、学者の妻にでもなって、美貌で聡明な夫人として安穏な一生を送ったことであろう。
八重は梶之助伯父から、「あなたの病気のことはまだよくわからないけれど、一年くらいここで様子を見なさい」と言われ、伯母に一晩でいいから一緒に過ごしてほしいと懇願するも、規則で許されていないから、とひとり残された。死を思う日々が続いた。その八重をレゼー司祭は毎日見舞った。読み終えた英字新聞を片手に、みことばとユーモアを携えて、八重が命を絶とうとしないかと案じながら。

 いつしか八重の中に、生きる力が湧き出でてきた。親戚が病院のなかに、八重のための小さな家を建ててくれたし、敷地内を散策して牧場をさ迷ったり、山百合やなでしこをみつけて楽しむ余裕も出てきた。それにハンセン病だと診断された皮膚の斑点は、それ以上悪化することがなかった。周りの悲惨な現実に目を向けられるようになってきた。病院にいるハンセン病患者たちは、誰にも顧みられることなく、ここで尽き果てよと捨てられて、それを外国人であるレゼー司祭が孤軍奮闘しながら救っているのである。レゼー司祭は、まるで我が子のように患者に接し、満身の愛を注いだ、という。とはいえ、神山復生病院は私立であり、財政は寄付に頼っていて、余裕は一切なかった。病院というのは名ばかりであり、医者が往診するだけで、専属の医者も、看護婦さえもいなかった。それを見ていた八重は奮起する。

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、
一粒のままである。
だが死ねば、多くの実を結ぶ。
自分の命を愛する者は、それを失うが、
この世で自分の命を憎む者は、
それを保って永遠の命に至る。

 自分に死ぬことは、命を得ることである、という、この逆説に満ちたイエスの教えは、八重が愛した聖句であった。八重は自殺を選ばなかった。けれど死を選んだのである。「もし許されるなら、このお年を召した院長のお手伝いをして、病院のために働くことができれば」という思いが八重の中に育っていた。

 御殿場に連れてこられてから三年経ったが、八重に病の兆しは一切現れなかった。レゼー司祭の勧めに従い、八重は上京して、皮膚科の権威であった土肥医師の精密検査を受けることにした。大正11年10月5日、八重は25歳にして、「堀きよ子様 右健全にして異常無之と診断」というお墨付きを得た。堀きよ子というのは、八重が入院した時に俗世の名前を捨てて付けた名である。長崎での診断は、誤診であったのだ。
  
 八重は、畑に落ちた麦になることを選んだ。病院は医療従事者を必要としており、最初は医者になることも考えたが、それは時間がかかりすぎるので、八重は最短の6ヶ月で看護婦になれる速成科に入った。八重はそれから67年の長きに渡って、無私の奉仕を続けた。その壮絶さは、わたしには想像がつかぬので、再び八重の言葉を借りようと思う。

「患者のウミやカサブタがこびりついた
着物、包帯の洗濯が大変でした。
井戸がなかったので、川の水を 
汲んできては大きな釜で湧かし、
アクを入れ、カサブタ、ウミは
たわしでこすり落としました。
冬などはエプロンにかかった水が
かちかちに氷り、体を動かすことが
出来なくなることもありました。
レゼー神父様の頃はそういう洗濯も
素手でやりました。感染をさけて
防護服、手袋をつけるようになったのは
昭和になってからでした。」

 仕事に追われ、睡眠時間もろくにとれなかった。人手が不足しており、看護婦とは名ばかりで、雑仕婦同様であったという。一年後、ただひとりの看護婦であった八重は、看護婦長となった。八重は次第に有名になっていき、多くの創作の源となっていく。なかには遠藤周作の作品のように、良家の子女である八重の実像とはかけはなれた設定で、その体験だけが使われることもあった。ナイチンゲール記章を受け、聖十字勲章を受けても、八重は自らに死ぬことを止めず、己のことを多く語ろうとしなかった。



 わたしは、八重の写る小さな写真を三枚所有している。曾祖母が晩年にカトリックの洗礼を受けたときの写真で、先日祖母の葬儀のとき、祖母の妹である大伯母が、その写真をみて、これは八重さんよ!と教えてくれた。八重は曾祖母の代母役だったようだ。中年以降の八重に、その若い日の美貌の面影はない。美しかった頃の写真では、その背が低かったことなど読み取れないのだが、年をとってからの八重は、丸くて小さな愛嬌のあるおばちゃんといった風貌である。ひとびとが彼女に栄誉を授けて、表舞台に引き出して消費しようとしたときも、八重はずっと弱いひとびとに仕える人生を変えることなく、優しさと愛をもって、毅然と舞台裏で働き続けた。そんな八重は92歳で旅立っていった。その旅立の言葉は、「お世話になりました。神様の待つよいところへ行きます。喜んで...」であった。

 話はそれから二十数年後、なぜか八重が生涯を捧げた病院に引き寄せられた、その遠縁のわたしと夫に戻る。明治時代の洋館の前で、わたしたちは記念館の始まるのを待っていた。時計が9時を指すと、緊張する胸を抑えながら見学依頼の電話をかけた。ツーツー。いよいよ緊張しながらまた電話をかけるが、繋がらない。きっと記念館のスタッフがいるのではなく、忙しい任務の合間を縫って、病院の方が鍵を開け案内してくださるのであろうと思うと、診察が始まったばかりの朝早くに気がひけて、何度目かの電話も繋がらなかったときに、わたしたちは諦めた。もう少し時間を置けばよいのだろうけれど、夫の実家での約束を放棄するわけにもいかないので、心残りながらわたしたちは再び車に乗り込んだ。高速に乗ると、朝の靄はどこにやら、まるではっきりとした夢を抜けて歩き出したような、鋭く眩しい光に照らされた。もう何年も昔、夏の終わりの幻のような、朝の一刻の出来事。


参考文献
「人間の碑 ー井深八重への誘いー」井深八重顕彰記念会
「幕末から明治に生きた会津女性の物語」 歴史春秋社
「井深梶之助とその時代」明治学院編刊
「いとしき草花 四季の人びと」和田静子

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